富士山噴火。渡辺 崋山。

<今日の江戸学トピック>
◆富士山噴火
 宝永4年(1707)11月23日、富士山7合目あたりの山腹の東南側山腹が爆発し大噴火を起こしました。日が傾くにつれ噴火は激しくなり、火柱が中空を裂き稲妻が飛び交ったそう。噴火は16日間続き、50を超える村が灰の下にうまりました。22日の深夜から23日にかけて30回ほどの地震が起こっていました。午前10時ごろから地鳴りが始まり、その音に驚いた老若男女が気絶したそう。噴火に伴い起こった火砕流によって山麓の村は壊滅状態に。江戸にも灰が舞い散ったそうだ。江戸でも灰は厚いところで3、4寸(約9〜12㎝)積もったそう。吹き上がった黒煙で周囲は真っ暗。昼でも明かりが必要だったそう。11月末には噴火が静まり、降灰も12月上旬にはやみました。出現した新山は宝永山と名づけられた。
◆渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。 三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。モリソン号事件で幕府を批判した「慎機論」で蟄居を命ぜられ、後に自刃。崋山は、1万5千石という小藩の家老として飢饉を予測した施政などで大きな成功をおさめている。また世界の情勢に通じるために蘭学者たちとの交流も深かった。そして絵画では当代一流で数々の名画を遺している。