松代藩

<今日の江戸学トピック>
松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市松代城を居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)、越前松平家、真田家が就封した。
 1622年(元和8年)に信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した後、明暦4年(1658年)に3代幸道の相続時に分地の沼田領3万石が独立( - 1680年改易)し、以後10万石として幕末までこの地は真田家の所領として続く。真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は帝鑑間詰(譜代大名待遇)であった。理由として、8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻小松姫徳川家康の養女(本多忠勝の実娘、一説によると徳川秀忠の養女)であること等の理由による。なお、支藩(分地)としては沼田藩以外に埴科藩もあったが、後年断絶している。信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、3代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たした。また、1717年享保2年)松代城下は大火に見舞われ復興に幕府より1万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。4代信弘は質素倹約を旨とし財政は持ち直した。5代信安の時代の1742年(寛保2年)松代城下を襲う水害に見舞われた(戌の満水 )。この際、再び幕府より1万両を借財し千曲川の河川改修が行われた。これにより松代城下は水害に見舞われなくなった。しかし、再び財政は悪化した。信安は河川改修の中心となった原八郎五郎を家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。しかしこれが家臣の反発を招き、1744年(延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。信安の後、藩主となった幸弘は、1757年(宝暦7年)家老の恩田杢を勝手方に据え財政再建に当たらせた。木工の5年間の在任中、めざましい成果は得られなかった。しかし、藩士・領民の財政再建に対する意識を改革したということでは、ある程度の功績を得られたといえる。幸弘は1758年(宝暦8年)藩校「文学館」を開いている。幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。幸貫は寛政の改革を主導した松平定信の子(第8代将軍徳川吉宗の曾孫に当たる)であり、幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才佐久間象山http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20161124#p1)を登用した。1847年(弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。
 9代幸教は、ペリーの浦賀来航時に横浜の応接場の警備を命じられ、その後も江戸湾の第六台場等の警備などを務めたことで、藩財政は破綻寸前となった。先代幸貫が計画した新たな藩校「文武学校」を1855年安政2年)に開校した。1864年(元治元年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられ藩兵を率いて上洛し、禁門の変が起こると参内して朝廷の守りについた。明治維新の際、松代藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられた。戊辰戦争には新政府軍に参加して多大な軍功を挙げた。1871年明治4年廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。<「真田家の館」http://sanadada.com/> 

●チェック
1. 藩祖は誰・・・真田信之(信幸)
2. 老中になったのは誰・・・真田幸貫(ゆきつら・信濃松代藩の第8代藩主。寛政の改革を主導した松平定信の長男で、徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている。)
3. 財政を立て直すため 恩田杢を登用したのは誰・・・真田幸弘
 (信濃松代藩の第6代藩主。第5代藩主・真田信安の長男。宝暦5年10月1日、将軍徳川家重にお目見えする。信安の代に起こった田村騒動の余波もあり、藩主になった頃、藩財政は藩主の生活費も事欠き、破綻寸前であった。幸弘は藩財政再建のために恩田杢を登用した。杢は、「改革担当者として生命を賭けて成就させたい。ただし、私の政策に藩の家臣一同の信任を条件とする。異議を唱えない条件として誓書を出して欲しい」という条件を提示した。重臣たちは大反対したが、杢を信頼していた幸弘は、これを諒とした。恩田杢の改革は庶民や身分の低いものと直結していた点が特筆される。普通、藩主に継ぐ実力者となれば、下の身分の者から話を聞くことは殆どないが、杢は藩の重臣や豪商とは勿論のこと、百姓とも対話をし不平不満を聞く一方、「改革に失敗すれば、私は切腹である。皆も協力して欲しい」と百姓の理解を求めた。この頃、松代藩では代官の不正が相次ぎ、藩は民心を失い、年貢の未納者もいた。そこで木工は、「既往の未納の年貢分は免責する。今後は間違いなく納めて欲しい」と頼み込んだ。かれの誠実で謙虚な態度により、領民は素直に年貢を納めるようになったという。また、百姓の訴えを聞き入れて不正を行なっている代官らを処罰し、領民への労役を軽減した。宝暦12年(1762年)に杢が46歳で病死すると、幸弘自身が藩政を主導した。幸弘は藩校・文学館を創設して教育の普及を図り、文化政策を奨励した。さらに自らも優れた教養人であり、多くの俳句に関する著作を残している。)
4. 分家筋の沼田藩では 真田氏の苛政を幕府に訴えた者がいます。それは誰・・・磔茂左衛門(杉木茂左衛門(すぎき もざえもん、寛永11年(1634年)? - 貞享3年(1686年))は、江戸時代の義民。上野国群馬県)の農民。代表越訴型一揆の代表的存在である。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。1662年、沼田藩主真田信利の悪政が始まり、1681年、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあう。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。1686年、茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。)

◆俳優松方弘樹さん死去。享年74歳。