3 代将軍徳川家光

<今日の江戸学トピック>
◆3代将軍家光(大猷院)
 父二代将軍秀忠、母お江与。慶安4年(1651)4月家光没、享年48歳。
 第3代将軍家光は、慶長9年(1604)父秀忠の嫡男(次男)竹千代として江戸城西ノ丸に生まれる。母お江与浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる。歴代将軍の中で次代将軍となる世継ぎを生んだのは秀忠の正室お江与のみであり、正室の子の将軍も初代家康、3代家光、15代慶喜のみである。明智光秀の家臣斉藤利三の娘お福(春日の局)が竹千代の乳母となる。竹千代は生来病弱で無口なため、活発で利発な弟国松を次期将軍に推す声が根強く、母お江は国松を溺愛した。国松との間に世継ぎ争いが生じたため、危機感をもった乳母春日局駿府城に隠居した大御所家康への働きかけで、江戸城にて家康が長幼の序を明確にした。竹千代は次期将軍として元服し、家光を名乗る。
 家光は長ずるにつれ、余は生まれながらの将軍であり、諸大名は家臣であるという自覚の振る舞いが目立つようになる。元和9年(1623)大御所となった秀忠は西ノ丸に移り、家光に政権を移譲する。だが幕政は二元政治の合議制とした。寛永9年(1632)秀忠が亡くなると、幕政の改革で老中・若年寄・奉行・大目付・参勤交代・鎖国体制などを定め、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。家光は将軍になっても遠乗りや諸大名の屋敷への御成りの外出を好んだ。しかし、日光東照宮の大改修で将軍の権威を誇示していた頃、気鬱の病で伏せるようになる。このため家光の側近である老中酒井忠勝松平信綱重臣が、幕府の諸制度の整備・運営を行い、将軍は極めて象徴的な存在となった。
 寛永2年(1625)家光は五摂家の一つ鷹司信房の娘孝子を正室に迎える。婚礼の翌年、お江与が亡くなると、唯一の後ろ盾を失った孝子は、女官たちを引き連れ、本丸を出て中之丸(吹上御庭・広芝)に引きこもり、「中之丸御方」呼ばれた。つまり、男色の家光とはすこぶる不仲で江戸城内別居の仮面夫婦となった。以降、摂家から迎えた正室はその家格のみが重要で、将軍家に箔をつけるための存在であった。
 寛永14年(1637)10月に勃発した島原の乱は、日本の歴史上最大規模の一揆で幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原半島天草諸島の領民に生活が成り立たない過重な年貢の取立に飢饉が襲い、キリシタン迫害や弾圧による天草四朗時貞を総大将とする反乱である。年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して拷問処刑を行なった記録が残されている。事態を重く受止めた幕府は老中松平信綱の総指揮で西国大名編成の討伐軍13万の兵で原城に籠城する3万7千の領民を陸と海から包囲し、寛永15年(1638)2月に原城炎上全滅した。島原藩主の板倉勝家は自らの失政を認めず、この反乱をキリシタンの暴動と主張したが斬首となった。江戸時代に大名が切腹でなく斬首されたのはこの一件のみである。この籠城事件から幕府は一国一城令を発令、歴史ある多くの名城が廃城となった。寛永18年(1641)に鎖国体制を完成させた。
 男色を好む家光の世継ぎを心配した春日局は大奥の新制度を確立させた。新設された大奥には、家光好みの女中を配して、側室お振の方に長女千代姫を皮切りに、側室お楽の方(宝樹院)に長男家綱(4代将軍)、側室お夏の方(順性院)に三男綱重(甲府藩主)、側室お玉の方に四男綱吉(5代将軍)らの世継ぎが誕生した。家光は東照大権現として祀られた祖父家康を深く尊崇しており、生涯で10回の将軍日光社参を行っている。日光東照宮の大造営を成し遂げた家光は「死後も魂は日光山中に静まり、東照大権現のお傍近くに侍り、仕えまつらん。東照宮を凌ぐ華美な造営であってはならない」と遺言を残し、承応2年(1653)日光東照宮に隣接する輪王寺大猷院を造営した。