江戸検の勉強も本格化。

◆江戸検が要求してくる知識情報は半端ではない。今以上に情報量を拡大していかなければならない。当面2月3月は読書量を強化したい。来月からは講習会等に参加予定。如何にここで知識量を増やすかが課題である。
 <今日の読書>
 ・大奥の奥
 ・江戸時代の大誤解
 ・江戸博覧強記 ①

<今日の江戸学トピック>
◆ロシアの南下(江戸博覧強記 P.377)
天明2年 神昌丸で遭難した大黒屋光太夫、磯吉、小市の三人が根室へ帰ってきただが、小市は亡くなってしまう。大黒屋光太夫は、寛政4年、ロシア人ラクスマン根室来航のときに帰国しました。彼の体験談「北槎聞略」は桂川甫周によって書かれた。家斉と謁見したとき、彼はロシア人の知っている日本人として、桂川甫周中川淳庵の 二人の名前をあげている。
・寛政6年閏11月11日、大槻玄沢は芝蘭堂にて新年会を開きました。大槻玄沢もまた 寛政5年若宮丸で遭難した津太夫のことを「環海異聞」として記していいる。文化元年 ロシア人レザノフに伴われて、津太夫は、長崎に帰ってきた。

<参考>・・・漂流物語
・北槎聞略(ほくさぶんりゃく)
 天明2年(1782)、江戸への航海中に遭難、漂流の後ロシアに渡り、寛政4年(1792)に帰国した伊勢国白子の神昌丸の船頭大黒屋光太夫等の体験を、蘭学者で幕府奥医師桂川甫周(かつらがわほしゅう)が幕府の命を受けて聴取したロシアの地誌・見聞録です。 ロシアの政治・経済・社会・物産・文字・言語などが詳細に記録されているほか、器物の写生図、地図の模写も含まれている。寛政6年(1794)8月に完成し、幕府へ献上された。平成5年(1993)、重要文化財に指定された。
・環海異聞(かんかいいぶん)
  寛政5年(1793)11月に陸奥国石巻を出航した若宮丸は、翌年アリューシャン列島の島に漂着。津太夫ら乗組員たちは、ロシアに8年滞留したのち、レザノフに伴われて、世界周航をめざす船に乗り込み、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎へ帰国しました。本書は津太夫ら帰国者の見聞を、蘭学者の大槻茂質(しげかた、玄沢)が聞き取り、まとめた書である。ロシアの社会や風俗等を絵入りで紹介するほか、長崎における日露間のやりとりについても記している。
・弘賢随筆(ひろかたずいひつ)
 幕臣で能書家、故実家、蔵書家の屋代弘賢(やしろひろかた、1758〜1841)の手もとにあった雑稿を取りまとめて、編綴したもの。その大部分は毎月15日、弘賢の知友が会合して、持ち寄りの文章を披露し合った、三五会の会員たちの草稿からなっている。今回展示するのは第55冊目に所収の「うつろ舟の蛮女」。 享和3年(1803)2月22日、常陸国の沖を漂流していた奇妙な船と、船中にいた異国女性の絵が描かれている。
・巡海録(じゅんかいろく)
 宝暦3年(1753)12月10日、八丈島の南岸大賀郷(現在の八丈町大賀郷)に唐船が漂着した。八丈島側は島役人が対応し、船主2名を上陸させた。言葉が通じないため、筆談で会話した、船主2名は高山輝、程剣南と名乗り、信牌(しんぱい、長崎への入港許可証)を役人へ提示しました。その後彼らは下田を経由して長崎へ送還された。  「巡海録」は当時下田代官所書記役を勤めていた関修齢(せきしゅうれい)が記した唐船漂流の見聞録である。本書には唐船の漂着から長崎への送還までの経緯や、漂流した清国商人、漂流船が描かれている。