今日も勉強ですね。熊本地震”本震”から1年。

◆朝から、今日も江戸学セミナーに参加。

<今日のニュース>
熊本地震”本震”から1年 男子大学生の遺族が現場に (2017年4月16日放送 11:54 - 11:55 テレビ朝日「ANNニュース 」より)
 熊本地震で2度めの震度7を観測した本震から今日で1年が経ち、自身で崩落した阿蘇大橋の近くで亡くなった男子学生の家族が、地震発生と同じ時間に現場を訪れた。熊本地震は14日に前震が16日に本震があり、関連死を含めて225人が死亡した。南阿蘇村では正午から追悼式が行われた。

<江戸学トピック>
●一石橋
 一石橋は江戸初期の江戸城外濠と日本橋川の分岐点に架橋された。北橋詰の本両替町の幕府金座・後藤庄次郎と南橋詰の呉服町の呉服商・後藤縫之助の両家の援助で橋の維持修理や再建にあたった。そこで後藤橋と呼ばれていたが、洒落好きの江戸っ子は、五斗(後藤)ともじって、五斗+五斗=一石橋と名付けた。
●迷子知らせ石標
 一石橋の南橋詰には、安政4年(1857)2月に迷子を保護する「満よひ子の志るべ」が建てられた。しるべの右に「志らする方」左には「たづぬる方」とあり、迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を四角の窪みに貼り知らせていた。同じく人出の多い浅草寺湯島天神の3ケ所に置かれ、戦災をまぬがれた、一石橋南詰と湯島天神の境内で迷子知らせ石標を見ることができる。
●八見の橋(新撰江戸名所)
 一石橋は八見の橋とも呼ばれていた。この橋上から見渡すと、外濠の常磐橋・呉服橋、鍛冶橋、道三濠の銭瓶橋・道三橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋の八橋が望めることで名付けられた。
日本橋高札場
 日本橋南詰の西側には、幕府の通達や禁令を江戸市民に知らせる高札場があった。高札は檜や梅などの板の上に墨文字で掲示されていた。高札場に掲げられた禁令として、キリシタン禁令、徒党禁令、火付禁令、などは密告を奨励していた。さらに庶民への周知徹底を図るため、高札の文面は仮名まじり文や仮名文が使われた。この文書は寺子屋の教材に推奨されていた。明治6年(1873)高札場は廃止され、江戸時代以前より長い歴史をここに終えた。
高札場の向かいの東側には、処刑者の晒し場があった。男女の姦通者や心中未遂者などが魅せしめとして晒されていた。
●自身番屋と木戸番屋
 江戸の町の入口には治安維持のため、自身番屋と木戸番屋が置かれていた。通一丁目(日本橋1丁目中央通り)の入口の右に町運営のために必要な事務仕事を行なう自身番が見える。その役割は多岐に渡り、当初地主から家主や店借主が輪番で務めた。番屋には町触れの筆写しや町経費の事務書役がいた。また、かつ突棒、刺又、袖搦などの捕物三つ道具も置かれ、同心がお縄にした不審者を奉行所に連行するまで、一時の留め置場とした。番屋近くに火の見梯子を架け、鳶口、龍土水、玄蕃桶などが配備され火消人足の集合場所でもあった。自身番の向いに通りを締め切る木戸番屋が置かれた。木戸番とはこの木戸の開け閉めを行なう番人の詰所のことである。木戸は四つ(午後十時頃)に閉められ、それ以降に通過する場合は木戸番が木戸の潜り戸から通す決まりになっていた。このとき僅かな謝礼を木戸番に渡していたことで、芝居小屋の見物料を木戸銭と呼んでいた。