近藤勇の斬首

<今日の江戸学トピック>
◆慶応4年(1868)4月25日、新選組局長近藤勇が板橋庚申塚の刑場で斬首されました。35歳。武蔵国珠の生まれ、試衛館で天然理心流を学びました。門下の土方歳三沖田総司らと上洛。浪士組に加わり、のち新選組を組織。局長となり、池田屋事件などの功績により幕臣となりますが、鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に。勝沼で官軍に敗れ下総流山でとらわれました。首は京都三条河原にさらされたそうです。
近藤勇
 江戸時代末期(幕末)の武士。新選組の局長として知られる人物。
もともとは多摩の農家の生まれであるが、当時通っていた天然理心流の道場・試衛館にて盗人を退治した活躍が認められ、師である近藤周助(近藤周斎)の養子となる。
 文久3年(1863年)、同門の土方歳三沖田総司らとともに、14代将軍徳川家茂の警護部隊「浪士組」に参加し上洛。その後、浪士たちの江戸帰還を提案されるが、近藤ら試衛館一派は水戸郷士芹沢鴨らとともに京に残留。京都守護職を務める会津藩預かりの治安組織「壬生浪士組(後の新撰組)」の隊長(呼称は局長)となる。結成当初は芹沢とともに局長二名という二派閥体制をとっていたが、蛮行の目立つ芹沢ら水戸派浪士たちが一掃(粛清)されてからは近藤派を中心とした体制がとられるようになる。戊辰戦争では江戸に戻り、「甲陽鎮撫隊」を再編。同隊の隊長として甲州へ出兵するが敗走。流山にて屯集するが新政府軍に包囲され、自らを犠牲に政府軍本営に出頭し処刑(斬首)された。

<今日の勉強>
・ 幕末ノートの作成