江戸検への道あと190日。

<今日の江戸学トピック>
寛永2年(16254月27日、毛利輝元が亡くなりました。73歳。豊臣政権の五大老の一人。長門周防の大名。毛利元就の孫であり、父は隆元。領国保持を条件に、秀吉の四国・中国征服に加わり、文禄の役にも出動。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将格となり、秀頼の世話をしましたが、戦い後は、周防・長門の2国に減封されました。この恨みが長州藩にあり、幕末最初から幕府に敵対し、最後は倒幕に向かうことになったようだ。

毛利輝元
 天文22年1月22日(1553年2月4日)に毛利隆元の嫡男として生まれ、幼名は「幸鶴丸」。11歳の時に父が急死し家督を継ぐ事となり、祖父・毛利元就が後見人として実権を握った。元就没後は叔父の小早川隆景に補佐された。永禄8年(1565年)に元服し、室町幕府13代将軍・足利義輝の許しを得て、「義輝」の一字をとって名を「毛利輝元」とし、この年に初陣も果たした。大友宗麟尼子勝久と九州・中国の覇権争いを続けた。
 天正4年(1576年)に織田信長に追放された足利義昭を保護し、上杉謙信本願寺顕如と協力して、信長包囲網に加わった。当初は優勢だったが、謙信が亡くなり、毛利水軍九鬼嘉隆の水軍に敗れ、家臣の宇喜多直家が離反し、石山本願寺が降伏し、羽柴秀吉の毛利攻めも始まり、備中高松城(岡山市)は水攻めを受け、輝元は窮地に立たされた。天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると秀吉は早々に毛利と和睦し、明智光秀を討たんと近畿へ戻り、輝元は最悪の危機を脱した。柴田勝家が倒されると、輝元は秀吉の家臣となり、九州攻めや四国攻めの先鋒を務め、2度の朝鮮出兵にも従った。慶長2年(1597年)に隆景が亡くなり、小早川秀秋家督を継いだが、輝元はこれに従わず、毛利家へ戻り、同年には五大老に列した。
 慶長5年(1600年)、臨終の際の豊臣秀吉から、豊臣秀頼の補佐を任された。徳川家康石田三成の対立が高まり、上杉景勝討伐に家康が動くと、三成も挙兵。大谷吉継の進言で三成は輝元を総大将に擁立する事を画策し、安国寺恵瓊の説得で輝元は西軍総大将についた。輝元は関ヶ原の戦いには出陣せず大坂城にいたが、西軍敗北・東軍勝利を知ると、すぐに城から退去した。戦後は敗将の責任をとって改易となるところを、吉川広家の計らいで領地を周防・長門(山口県)に減らされて存続。出家したのち家督を息子の毛利秀就に譲って隠居したが、実質的には藩政を司った。
 大坂の陣(冬/夏)では幕府側を支援する一方、家臣を大坂城に派遣するなど、決して従順だったわけではなかった。寛永2年4月27日(1625年6月2日)に73歳で亡くなった。