今日は法事

◆今日は朝から勉強、そして 江戸学セミナーを欠席し、法事に出席。

<今日の江戸学トピック>
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。
 幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図。江戸で求人した後、京に移動した。しかし清河の演説でその本意を知った、近藤勇芹沢鴨らが反発、京都守護職会津藩主、松平容保の庇護のもと、新撰組として発足した。同様の配下の京都見廻組幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された会津藩預かり」という非正規組織であった。隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、同戦争終戦と共に解散した。
 文久2年(1862年)、江戸幕府庄内藩郷士清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。翌文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退。殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名余の集団となり、京都守護職松平容保から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。4月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。6月、大坂相撲の力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せ付けず、一晩かけて焼き尽くす。同月、壬生浪士組八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説がある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。
 元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月、禁門の変の鎮圧に参加。池田屋事件禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組及び小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。慶応3年(1867年)3月、伊東らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する(油小路事件)。
 慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜大政奉還を行った。新選組旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。再び江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核により江戸にて死亡。新選組宇都宮城の戦い会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦い等で活躍する。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍箱館五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。

<今日の勉強>
・ 江戸博覧強記ノート
・ 幕末ノート