出島の三学者

 ・出島の三学者(でじまのさんがくしゃ)は、江戸時代、長崎の出島に来日して博物学的研究を行ったエンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの3人の学者のこと。当時日本は鎖国政策によりオランダとの交易のみを認めていたが、3人はいずれもオランダ人ではなかった。3人の旅行記は、平凡社東洋文庫で刊行されている。
 ①エンゲルベルト・ケンペル
 エンゲルベルト・ケンペル(エンゲルベアト・ケンプファー)は、ドイツ人医師・博物学者。元禄3年(1690年)から元禄5年(1692年)まで出島に滞在。長崎商館医を務めた。植物学を中心に博物学研究を行い、出島に薬草園を作った。著書『日本誌』は、彼の死後英訳版で発行された。
 ②カール・ツンベルク
 カール・ツンベルク(カール・トゥーンベリ)は、スウェーデン人医師・植物学者。リンネの弟子。安永4年(1775年)から安永5年(1776年)まで出島に滞在。長崎商館医を務めた。多数の植物標本を持ち帰り学名を付けた。通詞や蘭学者に医学・薬学・植物学を教えた。著書『日本紀行』など。
 ③フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・ズィーボルト)は、ドイツ人医師・博物学者。文政6年(1823年)から文政12年(1829年)まで出島に滞在。長崎商館医として着任したが、翌年には鳴滝塾を開いて日本人に医学・博物学の指導を行う。一方で、日本についての資料の収集に努めた。文政11年(1828年シーボルト事件を起こし、翌年国外追放。安政6年(1859年)オランダ商事会社顧問として再来日。江戸幕府の外交顧問としても働いた。文久2年(1862年)帰国。著書に『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』がある。これらの書物はペリーの来航にも影響を与えた。
 出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった。
 1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20160927#p3)に謁見した。江戸においても学者らと交友し、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内高橋景保(作左衛門)らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る。徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件・http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20161110#p1)。
 1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就任させる1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。
シーボルトに学んだ人々
 シーボルトの娘いねを養育した二宮啓作、「夢物語」を書く高野長英、象先堂を開く伊東玄朴ほかに、小関三英、戸塚静海、岡研介、高良斎など