カウント37 

◆カウント37 本日までの通算100時間/500時間。

◆青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて尾張藩で発生した佐幕派の弾圧事件。それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が「姦徒誅鋤」の勅命を受けて同月20日に帰国した直後に弾圧命令が出された。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。
 御三家である尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家には、御附家老というものが存在した。御附家老とは、単純に言えば将軍家から派遣された藩主のお目付け役であり、尾張では成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)家と竹腰兵部少輔(たけのこしひょうぶしょうゆう)家が知行高も大きく著名であった。藩主も遠慮しなければならない家柄からその権力は強大であり、藩内は自然、成瀬派と竹腰派に分かれた。このうち、より幕府に近い立場を取り続けたのが竹腰派であり、古くは幕府に反抗的だった7代藩主徳川宗春を隠居謹慎に追い込んだこともあった。幕末のこの時期、藩内は尊皇攘夷を唱える「金鉄組」と、佐幕的な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は金鉄組、竹腰家はふいご党に近かった。そもそも尾張徳川家は、藩祖である徳川義直の時代から代々勤皇の家風であり、14代藩主に就任した徳川慶勝尊皇攘夷の立場をとり、特にペリー来航以来藩政の刷新を進める中で竹腰家を初めとするふいご党と対立することが多かった。大老井伊直弼の弾圧により慶勝が隠居すると、金鉄組は没落し、竹腰兵部少輔が新藩主茂徳のもとで藩政を取り仕切ったが、桜田門外の変以降竹腰兵部少輔は失脚、慶勝が隠居の身ながら藩政の前面に出、金鉄組とともに頻繁に上洛して政局にあたった。その間、茂徳が隠居して慶勝の子義宜が藩主となり、ふいご党は日の目を見なかった。
 大政奉還後、1868(慶応4)年1月3日から5日にかけての鳥羽・伏見の戦い幕府軍が敗北した。その一報が名古屋に届くと、京都に派兵するかどうかで、派兵を主張する金鉄組と派兵に慎重なふいご党との対立が深まった。鳥羽・伏見の戦いで勝利した官軍は、同月4日に仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王征夷大将軍に任じ、同月7日に慶喜追討令を発出していたが、名古屋以東には幕府譜代の大名が多く、江戸に戻っていた慶喜の反撃も考えられたため、征討軍の通過に不安を感じていた。同月15日、朝廷は慶勝を呼び出し、交通の要衝にあたる尾張藩内の佐幕派勢力を粛清し、近隣の大名を朝廷側につくよう説得するため、帰国し、慶勝は早くから勤皇派だったが、徳川御三家筆頭として幕府に配慮する立場にあり、また藩内に佐幕派がいるのは当然のことだった。しかし勅命に反抗するわけにはいかず、苦悩の末佐幕派の弾圧を決意し、松平春嶽に対して「天朝とは君臣の義あり。幕府とは父子の親あり。国家艱難の際にあたりては、父子の親をすてても君臣の義をば立つべきなり。(…)」と語ったとされる。尾張藩の内紛として事件を収拾し、藩士に口止めをした。また「勤皇の者誘引」のため、家康以来の江戸の守りである譜代大名等である東海道中山道遠江駿河・美濃・信濃甲府・下野などの諸藩に朝廷側につくように働きかけ、承諾をとりつけたため、政府軍は江戸に争うことなく到着している。

遠山景元(とおやま・かげもと 金四郎のち左衛門尉 1793-1855)は、遠山景晋(かげみち)の実子で、江戸町奉行を務め名奉行と謳われた旗本である。永井家から遠山家に養子に入った景晋は、自分が養子入りしたのちに養父景好(かげよし)がもうけた景善(かげよし)を養子(遠山家の跡継ぎ)とし、景善はまた景元を自らの養子とした。このような複雑な家庭事情から、青年時代の景元は、無頼の徒と交じり放蕩に耽ったとも言われている。この頃の呼び名が〝遠山の金さん(あるいは金ちゃん)〟。若いころは放蕩三昧で吉原に居続け木挽町森田座囃子方で笛を吹いていたそう。
 文政7年(1824)に養父景善が没し、同12年に景晋が隠居したのに伴って家督を相続した景元は、その後、小納戸、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行を経て、天保11年(1840)3月2日、勘定奉行の遠山左衛門尉景元(48)が北町奉行に就任。老中の水野忠邦が抜擢。12代将軍徳川家慶に譲りながらも大御所政治を展開する家斉の乱脈政治をやめさせるという思惑が働いたからだそうだ。治安の乱れた江戸の市中を一掃させる狙いがあった。老中水野忠邦(ただくに)が断行した天保の改革で、穏健派の景元は、強引に改革を実現しようとする鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)(鳥居甲斐守忠耀)らと対立して大目付に転じるが、弘化2年(1845)に再び町奉行南町奉行)になり、嘉永5年(1852)3月、60歳で辞職。同じ人物が町奉行に再任されるのは初めて。安政2年(1855)没。享年63歳。


【クイズ1】

<鎌倉の 海よりいでし (   ) みな武蔵野の はらにこそ入れ>
この狂歌は「原」と「腹」をかけたもので、ある食べ物を江戸の人がこぞって食べたことを詠んだものです。(   )に入る食べ物とは、何でしょう?

(い)握り寿司
(ろ)初鰹
(は)帆立貝
(に)焼鰻

正解(ろ)
初物好きの江戸っ子にとっても、初鰹は特別なものだった。当時は鎌倉沖が漁場とされ、江戸に着く前に海上で取り引きされることもあった。

【クイズ2】
江戸時代後期の風俗を考証した『守貞謾稿』には、江戸の食べ物商売についての詳細が記されています。では、京都・大阪には少ないのですが、江戸には1〜2町に1軒はあったとされている食べ物屋とは、何でしょう?

 (い)鰻屋
(ろ)蕎麦屋
(は)茶漬屋
(に)天ぷら屋

正解(ろ)
それまでの蕎麦粥や蕎麦掻きに代わって、江戸時代になると蕎麦切りが普及し、江戸には屋台の蕎麦屋が増えていった。江戸時代中期から後期にかけて、屋台ではかけ蕎麦1杯が16文ほどで売られた。

【クイズ3】
江戸前の握り寿司について、次の記述のうち、正しいのはどれでしょう?

(い)元禄期、江戸前の握り寿司が誕生した
(ろ)寛政期、江戸では屋台の寿司屋は禁止されていた
(は)文化期、寿司種ではマグロのトロが人気で、高価だった
(に)文政期、江戸には屋台のほか、店を構える握り寿司屋が出現した

正解(に)
江戸前の握り寿司が登場したのは、文政期(1818〜30)のことと考えられている。

【クイズ4】
明暦3年(1657)の大火のあと、ある食べ物を売る店が浅草寺門前にでき、この店はのちの料理茶屋のさきがけとなりました。ではこの食べ物とは何でしょう?

(い)鯛茶飯
(ろ)奈良茶飯
(は)高菜飯
(に)納豆飯

正解(ろ)
『守貞謾稿』に、明暦の大火後、浅草寺門前の茶屋が、茶飯(茶で炊いた飯に茶をかけて食べるもの)と豆腐汁・煮しめ・煮豆などのセットを、奈良茶飯と名づけて売り始めたところ、江戸中の評判になったとある。