谷中から上野公園散策。青木 昆陽。

◆谷中の夕焼けだんだんに行き、「ひみつ堂」のかき氷を味わい、そこから上野公園までゆっくり歩いて散策。谷中霊園国立博物館上野東照宮、などを見学。公園内には自由な女神のブロンズ像も飾られていました。

◆寛政5年(1793)11月9日、国学者塙保己一が和学講談所を開設。林大学頭配下に属し、江戸麹町六番町に建設。保己一はここで、出版を中心に図書史料の研究調査活動を行った。『群書類従』の収集校訂を続行、また宇多天皇即位から徳川家康就任に至るまでの『史料』、武家の制度に関する『武家名目抄』などの編集を行った。

<今日11月9日が命日の江戸時代人>
◆青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))は、江戸時代中期の、幕臣御家人書物奉行儒学者蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生と呼ばれる。名は敦書(あつのり、あつぶみ)通称は文蔵、昆陽と号した。
 江戸日本橋田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。浪人として京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学ぶ。江戸町奉行所与力・加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により南町奉行大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧と言われている。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。
 江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛を拝命し、元文4年(1739年)には御書物御用達を拝命した。昆陽はサツマイモ栽培から離れ、また、幕臣となった。寺社奉行となっていた大岡忠相の配下に加わり、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・三河(愛知県)など徳川家旧領の古文書を調査し、在野の家蔵文書を収集して由緒書を研究。昆陽は収集した文書を分類して書写し、『諸州古文書』としてまとめられた。原本は所有者に返却され、家蔵文書の重要性を説き保存を諭している。のち紅葉山火番を経て評定所儒者となりオランダ語の習得に努め、弟子には『解体新書』で知られる前野良沢がいる。明和4年(1767年)書物奉行を命ぜられた。明和6年10月12日、1769年11月9日の今日、流行性感冒により死去、享年72。

◆昨年の結果通知は12月21日であった。今年はどうなるのだろうか。http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20161221