10年ぶりの熱海。徳川家斉。

◆約20年前に勤めていた熱海に、退職された先輩の傘寿のお祝いに参加。久しぶりに昔の話題や近況報告に花がさく。会食後に先輩の水墨画の個展を見学。退職後の人生について考えさせられる一日であった。私もあと一年あまりで、平成31年3月にはリタイヤする。これからの人生の在り方を考えさせられる機会ともなった。

<今日の読書>
・「日本歴史 大名と百姓」 電車の中の読書ではあまり進まないものである。

◆今日は二の酉です。1630年の開山以来、酉の寺として親しまれている台東区の長國寺では、12年に一度の酉年ということで「金運大熊手守り」が酉年限定版で授与されるそうである。今年は三の酉まであるということで、三の酉の年は火事や異変が多いといわれるため、三の酉の年限定の「火除守り」もあるそうです。隣の鷲神社と両方の「お酉さま」にお参りできる「神と仏の酉の市」、今日は冷たい雨ですが、賑わっていたようである。

<今日11月18日生まれの江戸時代人 徳川家斉
〇将軍在職51年。松平定信を老中首座とし寛政の改革を断行。隠退後も実権をにぎり大御所時代といわれました。文化・文政時代には町人文化が成熟しました。なんと側室は40人、子女は55人いた。まさにオットセイ将軍。
 第11代将軍徳川家斉 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20160805#p2 「11代将軍徳川家斉。12代将軍家慶。」

〇生誕 安永2年10月5日(1773年11月18日) 〇死没 天保12年閏1月7日(1841年2月27日)
〇改名 豊千代(幼名)、家斉
諡号 文恭院
墓所 東叡山寛永寺
江戸幕府 第11代征夷大将軍 (在任:1787年 - 1837年)
〇父:徳川治済、母:お富の方 養父:徳川家治
〇兄弟 徳川家斉徳川治国、黒田斉隆、雄之助、徳川斉匡、徳川斉敦、松平義居、久之助、本之丞
〇妻 正室:近衛寔子、側室:多数
〇子 徳川家慶、敦之助、徳川斉順、虎千代、徳川斉明、徳川斉荘、池田斉衆、松平斉民徳川斉温、松平斉良、徳川斉彊、松平斉善、蜂須賀斉裕 松平斉省、松平斉宣、他多数

〇徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。安永2年(1773年)10月5日、御三卿の一つ、一橋家の当主一橋治済の長男として生まれる。乳母は大崎局。安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、父と田沼意次の後継工作、並びに家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も病弱で子供がいなかったことから、天明元年(1781年)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。天明6年(1786年)家治が50歳で急死したため、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。寛政元年(1789年)、島津重豪の娘・近衛寔子と結婚している。寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、さらに尊号一件や大御所事件なども重なって次第に家斉と定信は対立するようになった。寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。
 ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換したことを示す訳ではない。家斉は定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命した。これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中達が支える形で定信の政策を継続していくことになる。このため彼らは寛政の遺老と呼ばれた。しかし、文化14年(1817年)に信明は病死する。他の寛政の遺老達も老齢等の理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老達を幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老達がいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。
 天保5年(1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。しかし実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いた。この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった時期でもあった。天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。最晩年は老中の間部詮勝堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。このように栄華を極めた家斉であったが、最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府が死を秘匿したと考えられている。家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。そうして間部詮勝堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。