12月下旬ですか。インフルエンザの予防接種。

◆都内も陽気も12月下旬の寒さ。17年ぶりに寒さらしい。季節はすでに冬ですね。北海道や北日本では雪模様のようです。仕事帰りの車中からイルミネーションの連続。まさに12月の年末の雰囲気です。スカイツリーも何色かに分かれていました。

◆すでにインフルエンザも流行してきました。今日予防接種を受けました。12年前に1週間インフルエンザにかかり、仕事を休み、そのご転勤させられた思いがあるので、今年はあと一年であり、体調管理をして来年度も現在の職場で頑張って行きたいものである。

<今日の読書>
・「日本歴史 大名と百姓」 

<今日11月20日が命日の江戸時代人>
◆安藤 信正(あんどう のぶまさ)は、陸奥磐城平藩の第5代藩主。安藤家第10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた[1]。磐城平藩第4代藩主安藤信由の長男。母は大河内松平信明の娘。幼名は欽之進、後に欽之介。元服時の初名は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行(のぶゆき)、さらに信正へ改名している。文政2年(1819年)11月25日、安藤信由の嫡男として磐城平藩江戸藩邸で生まれる。天保6年(1835年)3月15日、将軍・徳川家斉御目見する。同年12月16日、従五位下伊勢守に叙任する。後に長門守、対馬守と改める。弘化4年(1847年)8月2日、父の死により家督を継ぐ。弘化5年(1848年)1月23日、奏者番に就任する。
 安政5年(1858年)8月2日、寺社奉行加役を経て、大老井伊直弼の下で若年寄となる。安政7年(1860年)には老中となるが、直後の桜田門外の変で直弼が暗殺される。信正は事態を収拾した後、直弼に罷免されていた久世広周を老中に再任させ、以後この2人が幕政を事実上取り仕切る最高権力者となった(久世・安藤政権)。信正は安政の大獄を起こした井伊直弼の強硬路線を否定し、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えていた(公武合体)。文久2年(1862年)には直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させている。信正の公武合体策の一つが、孝明天皇の妹・和宮の第14代将軍・徳川家茂への降嫁の実現であった。長州藩士・長井雅楽の航海遠略策を承認したのも公武合体の一環であった。また、この頃になると日本国内では政情不安からアメリカ公使館通訳であったヘンリー・ヒュースケン殺害事件などの問題が起こっていたが、当時はアメリカが南北戦争で日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれを処理することに成功した。また、諸外国と条約を結んだことから問題となっていた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めた。
 文久2年(1862年)1月15日、和宮降嫁問題によって恨みを抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、負傷したが一命は取り止めている(坂下門外の変)。しかもその直後、包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見している。このとき、オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を見せる信正の姿に感嘆したという。しかし、一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けない」と非難の声が上がる。その上、女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれて、4月11日に老中を罷免され、溜間詰格への敬遠を余儀なくされた(6月2日に久世も罷免され、長井も藩論が攘夷論に転換して失脚した)。その後、隠居・謹慎を命じられ、所領のうち2万石を減封された。跡を長男・信民が継いだが、翌文久3年(1863年)8月10日に死去したため、甥の信勇を次の藩主に選んだ。
 慶応4年(1868年)に明治政府が立ち上がると、若年の信勇に代わって本領での藩政を指揮した。奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。その後、明治2年(1869年)9月10日に永蟄居の処分が解かれた。明治4年1871年)10月8日に死去した。享年52(満51歳没)。