今日からまた仕事ですね。徳川慶勝。そして青松葉事件

◆今日の勉強  10時間・通算205時間
 ・江戸博覧強記  ①
 ・年号等 
 ・江戸博覧点事項ノート
 ・人名300
 ・過去問
 ・江戸の女の底力 ①

徳川慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。弟に15代藩主・徳川茂徳会津藩主・松平容保桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年1878年)、この四兄弟は再会している。
 尾張藩では10代藩主・斉朝、11代藩主・斉温、12代藩主・斉荘、13代藩主・慶臧と4代続いて将軍家周辺からの養子が続いた。また11代藩主・斉温がその在世中に一度も尾張に入国せず江戸暮らしをするなど、藩士の士気を地に落とすような出来事が続き、下級藩士を母体とする金鉄党などの養子反対派が支藩高須藩出身である慶勝の藩主継承を渇望していた。慶勝の擁立は12代・13代と藩士に渇望されたが、いずれも将軍家からの養子が尾張家を継ぐことになった。嘉永2年(1849年)に慶臧が死去すると、ようやく、高須家の慶勝の14代藩主就任が実現する。ある意味、将軍家と水戸家(高須家)からの世継争いである。当時尾張藩は財政が破たんしており、付家老の判断で将軍家とのつながりを大事にしていた傾向があったようである。
 慶勝は藩祖・義直の遺命である「王命によって催さるる事」を奉じて尊皇攘夷を主張し、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行う。幕閣において老中・阿部正弘の死後に大老となり幕政を指揮していた井伊直弼安政5年(1858年)にアメリカ合衆国日米修好通商条約を調印したため、慶勝は水戸徳川家徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議した。これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳が15代藩主となる。
 安政7年(1860年)に井伊直弼桜田門外の変で暗殺されると、文久2年(1862年)に「悉皆御宥許」の身となった。その年に上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられる。文久3年(1863年)、茂徳が隠居し、実子の元千代(義宜)が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握る。その後、慶勝はたびたび上洛するが、その京都では文久3年(1863年)に会津藩薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変が起こり、京から長州藩及び尊攘派の公卿ら(七卿落ち)が追放された。翌元治元年(1864年)に慶勝は、雄藩の最高権力者からなる参預会議への参加を命じられるが辞退した。その年、池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変蛤御門の変)を引き起こす。しかし、これに失敗して長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次長州征討)を行うこととなる。征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した。しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。慶応3年10月14日(1867年11月9日)には土佐藩の勧めで15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われた。慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、12月9日(1868年1月3日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。翌慶応4年1月3日(1月27日)に京都で旧幕府軍薩摩藩長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する。慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取る。そのうち尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、1月20日(2月13日)に尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(青松葉事件)。そして尾張から江戸までの間の普代親藩を含む大名や寺社仏閣に至るまで使者を送って新政府側に付くよう説得し、500近くの誓約書(勤王誘引書類)を取り付けた。これにより慶応4年2月6日に京都を出発した新政府軍は大きな抵抗に合うこともなく約1月ほどで江戸に到着した。 維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年1878年)、この四兄弟は再会している。
 **御三家筆頭の尾張家であるが、慶勝の判断で新政府軍に恭順した。また、徳川幕府の江戸までの普代親藩を含む大名(例えば徳川四天王岡崎藩本多家など)や寺社仏閣に至るまで使者を送って新政府側に付くよう説得し、500近くの誓約書(勤王誘引書類)を取り付けた。この結果、新政府軍は大きな抵抗に合うこともなく約1月ほどで江戸に到着できたことなど、幕末尾張藩は、慶勝の力で存続ができた。
◆青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて尾張藩で発生した佐幕派の弾圧事件。それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が「姦徒誅鋤」の勅命を受けて同月20日に帰国した直後に弾圧命令が出された。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。
 御三家である尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家には、御附家老というものが存在した。御附家老とは、単純に言えば将軍家から派遣された藩主のお目付け役であり、尾張では成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)家と竹腰兵部少輔(たけのこしひょうぶしょうゆう)家が知行高も大きく著名であった。藩主も遠慮しなければならない家柄からその権力は強大であり、藩内は自然、成瀬派と竹腰派に分かれた。このうち、より幕府に近い立場を取り続けたのが竹腰派であり、古くは幕府に反抗的だった7代藩主徳川宗春を隠居謹慎に追い込んだこともあった。幕末のこの時期、藩内は尊皇攘夷を唱える「金鉄組」と、佐幕的な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は金鉄組、竹腰家はふいご党に近かった。そもそも尾張徳川家は、藩祖である徳川義直の時代から代々勤皇の家風であり、14代藩主に就任した徳川慶勝尊皇攘夷の立場をとり、特にペリー来航以来藩政の刷新を進める中で竹腰家を初めとするふいご党と対立することが多かった。大老井伊直弼の弾圧により慶勝が隠居すると、金鉄組は没落し、竹腰兵部少輔が新藩主茂徳のもとで藩政を取り仕切ったが、桜田門外の変以降竹腰兵部少輔は失脚、慶勝が隠居の身ながら藩政の前面に出、金鉄組とともに頻繁に上洛して政局にあたった。その間、茂徳が隠居して慶勝の子義宜が藩主となり、ふいご党は日の目を見なかった。
 大政奉還後、1868(慶応4)年1月3日から5日にかけての鳥羽・伏見の戦い幕府軍が敗北した。その一報が名古屋に届くと、京都に派兵するかどうかで、派兵を主張する金鉄組と派兵に慎重なふいご党との対立が深まった。鳥羽・伏見の戦いで勝利した官軍は、同月4日に仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王征夷大将軍に任じ、同月7日に慶喜追討令を発出していたが、名古屋以東には幕府譜代の大名が多く、江戸に戻っていた慶喜の反撃も考えられたため、征討軍の通過に不安を感じていた。同月15日、朝廷は慶勝を呼び出し、交通の要衝にあたる尾張藩内の佐幕派勢力を粛清し、近隣の大名を朝廷側につくよう説得するため、帰国し、慶勝は早くから勤皇派だったが、徳川御三家筆頭として幕府に配慮する立場にあり、また藩内に佐幕派がいるのは当然のことだった。しかし勅命に反抗するわけにはいかず、苦悩の末佐幕派の弾圧を決意し、松平春嶽に対して「天朝とは君臣の義あり。幕府とは父子の親あり。国家艱難の際にあたりては、父子の親をすてても君臣の義をば立つべきなり。(…)」と語ったとされる。尾張藩の内紛として事件を収拾し、藩士に口止めをした。また「勤皇の者誘引」のため、家康以来の江戸の守りである譜代大名等である東海道中山道遠江駿河・美濃・信濃甲府・下野などの諸藩に朝廷側につくように働きかけ、承諾をとりつけたため、政府軍は江戸に争うことなく到着している。