善福寺

<今日の江戸学>
東京港区の善福寺は、幕末にアメリカ公使館が置かれた禅刹。境内には初代公使ハリスの顕彰碑も。写真の山門をはじめ諸堂は戦災で焼亡したが、本堂は明和4年(1767)建築の東本願寺八尾別院の本堂が、3度の移築を経て同寺へもたらされたもの。
安政5年(1859年)には日米修好通商条約に基づき当寺院内に初代アメリカ合衆国公使館がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留していた。また、福澤諭吉も出入りしていた。
福澤諭吉の墓。福澤は慶應義塾大学の創設者。2月3日は福澤の命日に当たり、(雪池忌(ゆきちき)と呼ばれている)慶應義塾の関係者らが多数当寺院にある福澤の墓所を訪れる。普段からも参拝者は多く、特に受験シーズンは福澤の墓から線香の煙が絶えることがないそうだ。



天明6年の大火

<今日の江戸学トピック>
天明6年(1786)1月22日午前11時ごろ、江戸湯島天神前の牡丹長屋から出火。西北風にあおられて、日本橋、東は葺屋町まで広がって大川、深川へと飛び火。神田・日本橋から深川まで延焼、中村座焼失。翌日には西久保神谷町から海手まで延焼する。湯島聖堂は全焼、神田明神も本殿以外、焼失した。
◆明治26(1893)年1月22日、歌舞伎作者河竹黙阿弥が亡くなった。78歳。文化13年(1816)生まれ。5世鶴屋南北に入門。とくに世話物にすぐれ、「白浪物」とよばれた江戸歌舞伎の集大成。維新後、活歴物や散切物を書き、活躍の幅を広げた。『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』など生涯書いた作品は合計360編にのぼります。

浮世絵最強列伝

◆米国サンタフェ在住のリー・ダークス氏が、空軍士官として日本に駐留したのを契機に日本文化に関心を持ち、浮世絵版画の名品を収集した。この展覧会では、浮世絵の祖・菱川師宣美人画喜多川歌麿、役者絵の東洲斎写楽、そして葛飾北斎歌川広重など代表的な浮世絵師の優れた作品が展示されていた。有名な広重の東海道五十三次北斎の富獄三十六景などの作品も見られた。


葛飾北斎[1760〜1849]江戸中・後期の浮世絵師。今の墨田区亀沢付近で生まれ、江戸の人。生涯のほとんどを区内で過ごし、93回も引っ越した。幼名、時太郎、のち鉄蔵。初号、春朗、ほかに画狂人・為一など。初め勝川春章に学んだが、狩野派・土佐派・琳派(りんぱ)・洋風画など和漢洋の画法を摂取し、読本挿絵や絵本、さらに風景画に新生面を開いた。「北斎漫画」や各地から望む富士を描いた「富嶽三十六景」が有名。「富嶽三十六景」が有名。 ゴッホやモネら海外の画家にも影響を与えたとされる。衣食などに頓着せず、散らかった部屋で作画ざんまいの暮らしだったといわれている。

<今日の江戸学>
◆慶応2年(1866)1月21日、薩摩と長州が軍事同盟を結びました。会談は元土佐藩坂本龍馬らが仲介をし、薩摩藩の呼びかけに長州藩が応じたもの。薩摩側から小松帯刀西郷隆盛大久保利通、長州側から桂小五郎が出席。当初は過去に敵対していたため交渉が進みませんでしたが、坂本龍馬らの立ち会いのもと、ようやく合意。6箇条からなる条文は薩摩側が提案、それを桂が紙に書き、龍馬が確認の朱筆を入れた。

資料整理とおでん

◆今日は昨日の研修の資料整理。そして夕食にひさしぶりに「おでん」を作る。だしはよかったようだが、あまり時間がなく味がしみこまなかったみたいです。

(1月20日生まれの偉人)
◆尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名: 尾崎 秀雄(おざき ひでお)、1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日)は、日本の俳人種田山頭火らとならぶ自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。旅を続けて句を詠んだ動の山頭火に対し、放哉の作風は静のなかに無常観と諧謔性、そして洒脱味に裏打ちされた俳句を作った。性格は偏向的であり、自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、他の法学部卒業生を嫌うという矛盾的性格を持ち、また酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。唯一の句集として、死後、荻原井泉水編『大空〔たいくう〕』(春秋社、1926年6月)が刊行された。
◆西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は日本の詩人、英文学者(文学博士)。戦前のモダニズムダダイズムシュルレアリスム運動の中心人物。水墨画をよくし、東山と号した。小千谷市名誉市民。

今日の研修テーマは葛飾北斎。鯛焼き「柳屋」。

◆午後から、ガイド案内の研修に参加。今回のテーマは葛飾北斎
 余談だが、研修会場が人形町であった。ちょうど駅を降りて並んでいる列を発見した。それは、たい焼きであった。「柳屋」は麻布十番浪花家総本店」、四谷見附「わかば」と並んで鯛焼き御三家と称されているそうだ。東京の鯛焼き店の御3家の1つであり、大正5年(1916年)創業で甘酒横丁内、豆腐の双葉の向かい側。鯛焼き御三家と称される柳家、常に行列の絶えない人気のたい焼き屋である。2013年10月19日にテレビ東京で放送された出没!アド街ック天国で紹介され、2016年6月の放送では第7位として紹介されていた。

阪神・淡路大震災から24年。

◆発生時間に黙とう。阪神・淡路大震災から24年。
 6434人の命が奪われた阪神淡路大震災から今日で24年が経った。6434人が犠牲になった阪神大震災から、17日で24年となる。平成最後の震災忌も発生時刻の午前5時46分に合わせ、各地で追悼行事が開催された。兵庫県・神戸市の東遊園地では地震が発生した午前5時46分に合わせて黙祷し犠牲者に祈りを捧げた。被災地の兵庫県神戸市では追悼式典が開かれている。。
 事前復興で備えていても想定を超える災害が起きる事もあるが、それでも災害が起こる前に住民同士が話し合い、復興のイメージを作っておくことが、いざというときにいち早い復興の原動力となるのかも。ただし、国や行政の力は不可欠。東日本大震災から、8年を迎えようとしているが、まだまだる現実をみると、なんとも言えない。いつ、身の回りで起きる可能性が不安である。まして昨年のように地震だけでなく、災害がおこると不安である。

<1月17日生まれの偉人・先人の言葉>
◆大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年(明治18年)1月17日 - 1923年(大正12年)9月16日)は、思想家、作家、ジャーナリスト、社会運動家
 ・名言『「失敗はなお無為にまさる』
    『人生は決して、あらかじめ定められた、すなわち、ちゃんとできあがった一冊の本でない。各人がそこへ一字一字書いて行く白紙の本だ。生きて行くそのことがすなわち人生なのだ』
◆清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、教育者・牧師。桜美林学園創立者滋賀県出身。中学時代にウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、同志社大学神学部に進学。さらに渡米しオベリン大学に学ぶ(オベリンの名前は後に彼が創立する桜美林学園の名の由来ともなる)。1917年に中国・大連へ渡り、布教活動を開始。翌年には奉天に移り児童園を設置。1920年に北京へ移り、貧困に喘ぐ女子を対象とする実務教育機関・崇貞平民工読学校を朝陽門外に開校(翌年崇貞女子学園に1938年に崇貞学園と改名)。その後、小学校や中学校を併設し、中国人のみならず在華日本人にも門戸を広げた。敗戦と共に帰国、妻の清水郁子とともに東京郊外に「キリスト教主義に基づいた国際的な教養人の育成」を建学の精神とする桜美林学園を創立する。
 ・清水安三記念会 http://yasuzo-s.com/ http://oumi-shintan.com/index.php?QBlog-20130514-1
 ・名言『大学の設立こそは少き日に新島襄から享けし夢かも』

<難破船> 作詞: 加藤 登紀子 作曲: 加藤 登紀子 歌:中森明菜 https://www.youtube.com/watch?v=jyVWdqm7Ebc
 
 たかが恋なんて 忘れればいい 泣きたいだけ 泣いたら 目の前に違う愛が 見えてくるかもしれないと そんな強がりを 言ってみせるのは
あなたを忘れるため さびしすぎて こわれそうなの 私は愛の難破船
 折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい 海の底へ 沈んだなら 泣きたいだけ 抱いてほしい

 ほかの誰かを 愛したのなら 追いかけては 行けない みじめな恋つづけるより 別れの苦しさ えらぶわ そんなひとことで ふりむきもせず 別れたあの朝には この淋しさ 知りもしない 私は愛の難破船
 おろかだよと 笑われても あなたを追いかけ 抱きしめたい つむじ風に 身をまかせて あなたを海に 沈めたい 

 あなたに逢えない この街を 今夜ひとり歩いた 誰もかれも知らんぷりで 無口なまま 通りすぎる たかが恋人を なくしただけで 何もかもが消えたわ ひとりぼっち 誰もいない 私は愛の難破船