「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」・・・田中久重

◆田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年1881年)1月11日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。
 天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案し「からくり儀右衛門」と呼ばれ人気を博する。その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門、天文学の学識も習得した田中は、最も優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た。嘉永3年(1850年)に革新的和時計の須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作し、この頃に蘭学者の広瀬元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う日本の不定時法に対応して、季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた。
 その後、再び西下して佐賀に移住した久重は、嘉永6年(1853年)、佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する。また、軍事面では反射炉の設計(改築)と大砲製造に大きく貢献した。文久元年には佐賀藩三重津海軍所で藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造担当者となっているほか、文久3年には実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」(御召浅行小蒸気船)建造の中心的メンバーとなっている。元治元年(1864年)には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した。
 明治6年1873年)に、新政府の首都となった東京に移る。75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。明治14年1881年)1月11日、82歳で死去。久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉(2代目久重)が引き継いで芝浦に移転し、株式会社芝浦製作所となる。後に東京電気株式会社と合併、東京芝浦電気株式会社となり、これが現在の東芝の基礎となった。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。
<先人田中久重の言葉>
 ・「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就が  あるのである」・・・まさにモノづくりの精神ではないだろうか。
 ・「国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん」