メーデー

 メーデー(May Day、直訳すれば「5月の日」)は、世界各地で毎年5月1日に行われる祭典である。ヨーロッパでは夏の訪れを祝う日である一方、労働者が統一して権利要求と国際連帯の活動を行う日でもある。「労働(者)の日」"Labour Day"ともいうが、いくつかの国ではその国独自の「労働者の日」を定めているため、International Labour Day と言う必要がある。
メーデー」とは本来五月祭を意味し、この日に夏の訪れを祝う祭がヨーロッパの各地で催されてきた。この祭では労使双方が休戦し、共に祝うのが慣習であったが、これが近代に入り現在の「メーデー」へと転化し、こんにちの「労働者の日」メーデーが誕生した。労働者の日としてのメーデーは、1886年5月1日に合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求(8-hour day movement)の統一ストライキを行ったのが起源。 1日12時間から14時間労働が当たり前だった当時、「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、おれたちの好きなことのために」を目標に行なわれた。メーデー起源の国であるアメリカ合衆国をはじめ、メーデーとは異なる時期に「レーバーデー(労働者の日)」を定めている国々もある。
 日本では、1905年(明治38年メーデーの先駆けとなる平民社の主催で茶話会というかたちで開かれ、引き続き1906年に横浜曙会の吉田只次・村木源次郎・金子新太郎らがメーデーを記念し街頭演説、ロシア二月革命後の1917年5月7日に在京社会主義者約30人がメーデー記念の集いを開催した。労働団体が挙行にいたるのは1920年5月2日日曜日に第1回のメーデー(主催:友愛会 司会者:鈴木文治)が上野公園(現在の東京都台東区)で行われ、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えた。翌年からは5月1日となり、開催地や参加人数も増えていった。
 アジア・太平洋戦争敗戦翌年の1946年、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれた(別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」)。 全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まった。5月12日には「米よこせ」を叫ぶ市民が宮城内に入り、同19日には「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、民主人民政府の樹立が決議された。
 高度成長期には総評、同盟などの共催で統一メーデーが続けられ、1984年の第54回大会では特別決議としてメーデーの祝日化要求が採択された。「時短元年」と位置づけられた1985年の55回大会ではサブスローガンで「週40時間制」、前年の祝日化要求決議を引き継ぐ「太陽と緑の週」の法制化など、労働時間短縮(時短)の実現が掲げられた。そして新たに「スポーツ祭典」が併催されて「お祭りメーデー」と呼ばれる家族ぐるみの行事に発展したが、他方で労働運動としての意義の喪失に繋がると社会党共産党日本高等学校教職員組合(日高教)などいくつかの労組から反対や再検討を求める批判がなされた。その後、労働組合の全国中央組織の再編による組織対立の激化で、1989年以降は統一メーデーの開催ができなくなり、連合と非連合系の全労連全労協による分裂開催となった。また、前後がゴールデンウィークで長期休暇を取る例が増え、労働組合活動が低調になってきて参加者数が減少したことを理由に、連合系メーデーは2001年以降4月29日や土曜日に行うようになり、一方で全労連全労協メーデーは5月1日開催を続けており、その分裂と対立の構図は解消されていない。今年も、連合は4月29日に開催された。今日、全労連系中央メーデーは今日開催される。
 このメーデーで思うことだが、数は力であり分裂メーデーは避けるべき。政治に動かされていることの証であろうが、労働運動は、勤務条件であり、給与等の生活闘争である。それを政治に利用されているにほかならない。でも、私自身には、そんなことが言えないかも。メーデー自体に参加したのは唯一1回だけ参加した記憶がある。だいぶ昔の記憶であるが、、、
 どうすれば、日本経済はかわるのであろうか。東日本大震災のの復興特需があっても、まだまだ日本の経済は不透明。雇用も安定せず。人口減少の日本はますます働き手がいなくなる。今なんとかしなければ、日本は没落する。最近の地震に相まってまさに、「日本沈没」も?