「八重の桜」始まる。舞台は会津若松。

 今日から、「八重の桜」の第一回目が始まる。今日のあらすじは、
 「1868(慶応4)年8月、砲撃をあびる会津鶴ヶ城内で、スペンサー銃を構え戦う若き女性銃士がいた。山本八重(綾瀬はるか)、後の新島八重である。
 戦からさかのぼること17年前。5歳の八重(鈴木梨央)は男勝りで負けん気が強く、父・権八(松重豊)や母・佐久(風吹ジュン)も手をやいていた。そんな八重が慕ってやまないのが、兄・覚馬(西島秀俊)だった。銃で華麗に的を撃ち抜く兄の姿を見た八重は、砲術に夢中になっていく。一方、兄覚馬は、江戸で佐久間象山に学び、西洋に学ぶことは始めた。まさに、ペリー来航に伴う、幕府の混乱期であった。』

◆『ならぬことはなりませぬ。』とは
 什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬものです)・・・会津藩校一新館
 同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていました。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となりました。毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
※什により、一つ二つ違うところもありましたが(「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」はすべての什にあったわけではないようです)、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通でした。そして、「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」しました。事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、子供らしい次のような制裁を加えました。
一、無念(むねん)
 一番軽い処罰です。みんなに向かって「無念でありました。」と言って、お辞儀をしてお詫びをします。「無念」ということは、「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、まことに残念であります。」という意味でした。
二、竹篦(しっぺい)
いわゆる「シッペ」です。制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか又は手の甲に加えるか、何回加えるかを決めました。仲がいい相手だからと力を抜くものがいれば、什長は厳しく目を光らせ、すぐにやり直しを命じました。
三、絶交(ぜっこう)
一番重い処罰です。これを「派切る(はぎる)」と言い、いわゆる「仲間はずれ」でした。めったに加えられる罰ではありませんでしたが、一度「絶交」を言い渡された場合には、その父か兄が付き添い「お話」の集まりに来て、什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができませんでした。
四、その他
火鉢に手をかざす「手あぶり」や雪の中に突き倒して雪をかける「雪埋め」というような制裁もありました。子供にとって仲間たちから受ける審問は辛いものではありますが、「お話」も「制裁」もすべて大人たちに言われてつくったものではなく、子供たちが制約や強制を受けずに自分たち自身でつくり、「会津武士の子はこうあるべきだ。」ということを互いに約束し、励み合ったのです。

◆『日本人の魂と新島八重』(櫻井よしこ著・小学館101新書)から
<内容>
・幕末、戊辰戦争会津藩は白虎隊はじめ多数の死者を出し大敗した。そのとき鶴ヶ城で砲撃を指揮し、スペンサー銃を抱えて戦った女傑がいた。NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公で、後に同志社大学創設者・新島襄の妻となる新島八重である。
新島八重は1845年、寒さの厳しい初冬の日に、会津藩の山本家に生まれた。
・八重の祖父は、会津藩の砲術師範を務めた。兄の覚馬は会津藩藩校「日新館」において、剣術、弓術、馬術、槍術、柔術、水練などの、武芸でどれも奥義に達する腕前を誇る人物だった。
・晩年、八重が打ち込んだのが茶道だった。八重の実家である山本家の本家は遠州流の茶人・山本道珍。
会津若松の基盤を築いたのが戦国時代の領主、蒲生氏郷
会津藩の藩祖は、保科正之。彼は、徳川二代将軍・秀忠の庶子。秀忠の正室・お江に知られると命が危ないとされ誕生は極秘とされた。そこで武田信玄の娘・見性院が正之を匿い、心をこめて養育した。やがて、正之は元武田家の家臣、信州高遠藩藩主・保科正光の養子となり、保科家を継いだ。その後、この件は正之の腹違いの兄、三代将軍・家光の知るところとなった。家光は正之を弟として愛しみ、高遠藩3万石の当主から一挙に出羽最上藩20万石、さらに23万石の会津藩主へと引き上げた。
会津藩の教育の特徴は、武芸の重視である。とにかく体を使って鍛錬することを幼少の頃から叩き込む。心は頑健な体によって支えられていることを知っていた。そして、将軍を支える役割を果たす。
・藩校、日新館教育の基本は、中国の古典、四書五経などの素読あった。暗誦できるまで、何度も繰り返し読む。暗誦できるほどになれば自然に内容も身につくという考え方。
・日本の国柄を守り通した会津藩、世界の他国にはない、『和をもって貴しとなす』から、始まった歴史。
・国は人。人は教育で育ち、力になる。
・利害損得から離れ、人間の我欲を制御した、純粋な価値観を貫いた国是と人。
会津藩出身で有名なのが、会津出身者初の陸軍大将・柴五郎。彼の名は、日清戦争後の義和団事件と、『ある明治人の記録』でよく知られている。
・柴五郎は、戊辰戦争後の厳しい生活を子供のころ、過ごした。その後、苦労し、陸軍幼年学校、士官学校を経て、中国語を学び、中国問題の専門家となった五郎は、義和団事件「北京の五十五日間」を冷静かつ大胆勇敢に乗り切った。
<感想>
・朝敵の汚名を着せられても愛と正義の会津魂は消えなかった。日本人の精神が脈々と会津人士に生きた。その象徴が山本八重である。著者は、日本人の魂を、その貴重な伝統的価値観の回復を呼びかけている。会津人の「愛と正義」は個人を越えて大義を重視した会津藩の武士道精神に見られるが、「朝敵の汚名を着せられても大義を貫き、敗れても恨むことなく、幾多の艱難辛苦に耐えて」、維新後の国家のために貢献した。その精神の源泉は奈辺にあったのか。八重が名誉回復なった戊辰六十年の周期に詠んだ歌が残る  『いくとせか峰にかかれるむら雲の 晴れてうれしき光をぞ見る』
・鶴ケ城籠城戦を鉄砲をかついで勇敢にたたかった女傑・山本八重は、敗北後、離婚し、京へ向かった。そこでアメリカ留学から帰って同志社大学設立に燃える新島襄と出会い、再婚し、しかも基督教へ入信する。「家には多くの日本の家同様、神棚と仏壇を設けています。しかし、基督教の考え方も排除しません」。しかも山本八重は晩年になると仏教、とくに臨済宗の禅に引かれ、茶道に晩年の道を求めた。このため「仏教に帰依した」と大騒ぎになった。八重は会津の大龍寺に山本家の墓を建てた。会津の精神の源流を遡及していくのである。昨日から始まった大河ドラマ会津と幕末の話も面白そうだ。
・ただ会津藩の話だけでなく、そこで繰り広げられる幕末維新の歴史は壮絶だ。会津武士の精神というのは、日本人の武士道にもつながり、現代の我々にもつながっている。会津魂の『ならぬことはならぬ』の精神や修行の過程、ものの見方で、日本を元気に出来る知恵があることを、みていきたい。

◆「県内全基廃炉」75.4% (福島民報 1月6日(日)10時59分配信)
 福島民報社は県政の重要課題に対する県民意識調査を行い、5日までに結果をまとめた。冷温停止中の東京電力福島第一原発5、6号機、第二原発1〜4号機の再稼働について、「全て廃炉にすべき」との回答が75・4%を占め、脱原発を強く望む福島県民の意識が浮かび上がった。今後、必要とされるエネルギー源・電力源は「新エネルギー」が47・7%となり、太陽光など再生可能エネルギーへの期待感の大きさをうかがわせた。
 県民意識調査では、福島第一原発5、6号機、福島第二原発の再稼働の可否や将来のエネルギー源に対する考えを聞いた。 
 原発の再稼働についての回答は、「全て廃炉にすべき」が「福島第二原発のみ稼働すべき」(16・4%)と「全て稼働すべき」(3・2%)の合計19・6%を、55・8ポイント上回った。「分からない・無回答」は5・0%だった。 
 男女別の「全て廃炉にすべき」は男性72・5%、女性78・1%。女性の方が再稼働に対する拒否感が強いことがうかがえる。 
 年齢別で「全て廃炉」とした割合が最も高かったのは、男性が六十代の79・3%。最も低かったのは二十代の55・8%。三十代は68・0%だった。一方、女性の最高は三十代の82・8%。各年代とも70%台前半から80%台前半となっている。 
 原発事故を受け、東電は第一原発1号機〜4号機の廃炉作業を進めている。これに対し、県は福島第一、第二原発の全基廃炉を求めている。県議会も県内原発の全基廃炉を決議している。 
 しかし、東電の広瀬直己社長は「今後、国のエネルギー政策の全体像が見えていく中で判断しないといけない」などとして態度を明らかにしていない。
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 新年に入り、原発問題についてリセットし、再稼働を見直す動きがあるが、福島県民の思いを忘れている感がするのは私だけでしょうか。30年も帰れないという村があるのに。汚染土壌等の処理がまだまだ片付かないうちに。
 東日本大震災の復興が遅れている。人手不足もあるが、大きいのは、官庁の縦割り行政の弊害であろう。関東大震災の時、山本権兵衛首相が自分は軍人であり、専門外なので、政敵後藤新平に任せたように、東日本の復興は、全て復興庁に任せることにより、一層進むであろう。また、復興庁も金を出しながらも、細かい点は地方公共団体にまかせることにより、さらに、地元住民の意向を反映できるのではないか。

(1月6日生まれの偉人)
◆今西 錦司(いまにし きんじ、1902年1月6日 - 1992年6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学、1939年)。最初水棲昆虫の生態学的研究と、日本の植物相の生物地理学的研究を行い、第二次大戦後はニホンザルなどの野生の霊長類研究を進め、日本の霊長類社会学の礎を築いた。後年は自身の研究を自然学と称した。登山家としても知られる。