阪神淡路大震災から18年

 ◆6434人が亡くなった阪神淡路大震災は17日、発生から丸18年の朝を迎えた。多くの人生を一瞬で変えた午前5時46分、被災地は鎮 魂の祈りに包まれ、失われた命と、生き抜いてきた年月に思いをはせた。11年3月に起きた東日本大震災では、関連死を含む死者・行方不明 者が2万人を超えた。阪神淡路大震災の被災者は、18年たっても心身に癒えない傷を抱えている。だからこそ、ともに支え合って笑顔を取り 戻したい。近い将来には、南海トラフ巨大地震の発生が懸念される。悲しみを繰り返さないため、大きな犠牲を強いられた震災から教訓を学び 取り、命を守る次への備えに生かしたい。神戸市中央区の東遊園地では、同市などが主催する「阪神淡路大震災1・17のつどい」があり、東 日本大震災の被災者も含め約5000人(午前7時現在)が訪れた。「1・17」の形に並べた竹灯籠(とうろう)約7000本に火がともさ れ、参列者は午前5時46分の時報と同時に一斉に黙とうをささげた。


 ◆震災知らぬ市民4割超す…神戸市<毎日新聞
  6434人が犠牲となった阪神大震災は、17日で発生から18年になる。神戸市では昨年、震災を知らない市民が初めて人口の4割を超  え、街並みにも傷痕はほとんど見られなくなった。一方、家を失った人たちが移り住んだ復興公営住宅は1人暮らしの高齢者が増え、一層の見 守りが必要になっている。被災地の経済も低迷から脱し切れず、経済的に立ち直れない被災者の姿も垣間見える。
  兵庫県内の災害復興公営住宅では、入居者の高齢化率(65歳以上の割合)が昨年11月時点で48.2%と過去最高を更新した。1人暮ら しの高齢世帯は10年前に比べて9ポイント増の44.2%を占め、昨年1年間の孤独死は高齢者を中心に61人に上った。自治体が民間など から借り上げた復興住宅では20年間の契約期限が迫り、お年寄りが転居の不安を抱えている。
  震災で落ち込んだ被災地の地域経済も低迷が続く。日本政策投資銀行の分析によると、97年に復興需要が一段落して以降、兵庫県の県内総 生産(GRP)の成長率は、データが公表されている09年まで一貫して国内総生産(GDP)の成長率を下回っている。最大350万円を被 災者に貸し付けた国の災害援護資金は、約2割にあたる約1万2000人分が未返済。資金は小規模商店主らが当面の生活資金にあてたケース が多く、今も震災の影響から脱し切れない被災者の存在が浮かび上がる。
  復興事業のうち、土地区画整理事業は全て終了したが、市街地再開発事業ではJR新長田駅南地区(20.1ヘクタール)が今も続く。空き 店舗が目立ち、活性化策が大きな課題だ。被災地の最大都市.神戸市では、震災後に誕生、転入した市民が昨年11月現在で人口の約41%と なり、震災の風化も懸念されている。一方、東日本大震災を受け、阪神大震災の経験に学ぶ機運は高まっており、教訓を次代に伝えるために0 2年にオープンした「人と防災未来センター」(同市)は昨年、入館者が500万人を超えた。【阪神大震災取材班】

(1月17日生まれの偉人)
◆松方 幸次郎(まつかた こうじろう、慶応元年12月1日(1866年1月17日) - 昭和25年(1950年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣松方正義明治17年1884年)に東京帝国大学を中退し、同年エール大学に留学し明治23年(1890年)帰国。明治24年(1891年)第一次松方内閣組閣に伴い、父の首相秘書官となる。一時、新聞事業経営や官途についたが、明治27年に浪速火災保険の副社長に就任し関西における財活動を開始した。
 明治29年(1896年)川崎財閥創設者・川崎正蔵に要請されて株式会社川崎造船所初代社長に就任。それをきっかけとして大阪舎密鉱業(31年)、神戸瓦斯(同)、神戸新聞(32年)、神戸桟橋(41年)、九州電気軌道(同)、九州土地信託(同)、川崎汽船大正9年)、国際汽船(同)、神港倶楽部、ベルベット石鹸、日本ゴム蹄鉄、の社長に就任し、その他11社の役員をつとめ、一方神戸商業会議所会頭、明治45年(1912年)衆議院議員に当選し神戸の政財界の巨頭であった。しかし、大正9年から昭和6年までの連続不況期に、慎重な不況対策を一切採用せず、無謀ともいえる多角化戦略のため昭和2年の金融恐慌で、川崎造船所は破綻し、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める十五銀行も破綻し川崎正蔵が築き上げた川崎財閥を崩壊へと追いやった。これを機に役員を務めていた全会社を辞任する。その後は衆議院議員昭和11年(1936年)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。また川崎造船所社長として隆盛を誇った第一次世界大戦の際、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は松方コレクションの名で知られ、その一部は国立西洋美術館の母胎となった。