苦悩?そして決断する力

 朝五時に起床。いろいろなことが頭をよぎる。精神状態が不安定とは言わないが、自分の将来について考えさせられる。夢を追い掛ける年ではないが、まだまだ生きて行くのだから。将来を考えるのは当然かも。でも、まずは行動を。待っていても何も進まない。

◎私はどんな決断をするのだろうか。
 何が大事なのか。いま最優先で取り組むべきことは何か。危機の最中に何よりも重要なのは、ルールを守ることよりも、即断即決の実行力である。その瞬間に、何がいちばん大事なのか。既存のルールにしばられず、目の前の現実をしっかり見据えて、やるべきことをやる。まさに自らの危機管理の要諦である。

(2月20日生まれの偉人)
◆志賀 直哉(しが なおや、1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、日本の小説家。宮城県石巻市生まれ、東京府育ち。白樺派を代表する小説家のひとり。代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』。
 ・おのみち文学の館『志賀直哉旧居』について
 かつて訪ねたことがある『志賀直哉旧居』が尾道にある。大正元(1912)年志賀直哉尾道に移り住んだ棟割長家が現在でもみられる。志賀直哉は若い頃、父親との関係がうまくいかず、一時期尾道で生活していた。千光寺山中腹の三軒長屋の一室で、建物は質素でしたが、当時珍しいガスストーブを持ちこんでいた等、おぼっちゃまぶりがうかがわれるような生活だった。当時の三軒長屋丸ごと修復されて「旧居」として公開されており、志賀直哉の部屋は忠実に復元されている。窓からは尾道市街と瀬戸内海が見渡せ、絶景。代表作「暗夜行路」もここ尾道のこの部屋で草案が練った様子がここを訪ねると分かる。隣接の文学公園では林芙美子など文人達の作品を見ることもできる。
◆石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。本名は一(はじめ)。
 中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合う。『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱く。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃である。1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載される。これが初めて活字となった啄木の短歌だった。
 1905年(明治38年)1月5日、新詩社の新年会に参加。故郷では、3月に父親が宗費滞納のため渋民村宝徳寺を一家で退去するという事態が起きている。5月3日、出版費用を自分でも集めた第一詩集『あこがれ』を小田島書房より出版。上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文が寄せられた。5月12日、啄木は不在だったが堀合節子との婚姻届を父親が盛岡市役所に出す。このとき啄木は満19歳、啄木は親戚が集まった形式的な結婚式には出席しなかった。6月4日に盛岡に帰り、父母、妹光子との同居で新婚生活を送る。一家の扶養も啄木が負うようになる。同月、『岩手日報』にエッセイ他を「閑天地」と題して連載。9月5日、啄木が主幹・編集人となり、文芸誌『小天地』を出版する(発行人は父一禎)。岩野泡鳴、正宗白鳥小山内薫等30人余りの作品を掲載し、地方文芸誌として文壇の好評を得るが、資金問題で継続出版ができなかった。
 ・石川啄木記念館 http://www.takuboku.com/