営業成績をあげよ。

 今日は16時30分から営業所長会。社長から収入確保の指示。部下社員を使い、営業成績を上げるよう指示あり。あす、課長を集め、訓示する予定。どのように指示するのかを検討している。さあ、気合を入れて明日は午前中から会議。明日は頑張っていこう。明日で今週も終わり。

首相「時計の針動かそうと懸命」 政権発足100日(今日のニュースから) 
◆「なんとか時計の針を動かすために、結果を出すために、懸命に頑張ってきた」。政権発足から100日を迎えた4日朝、安倍晋三首相は首相官邸で記者団に対し、「ロケットスタート」の日々を振り返った。首相は昨年12月26日に政権が発足した当時の様子について、「進まぬ復興、長引くデフレ、行きすぎた円高、冷え込んだ日米関係。時計の針が止まったような状況だった」と説明。「国民の皆様に、少しでも時計が動き始めたと思っていただければ本当にうれしい。さらに努力していかなければならない」と語った。(朝日新聞

(4月4日生まれの偉人)
◆二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1909年(明治42年)5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。本名、長谷川 辰之助(はせがわ たつのすけ)。筆名の由来は、文学に理解のなかった父に、「くたばってしめ(ま)え」といわれたことから(ただし俗説であるとの見方も強く、確証はない。一説には自嘲ともいわれる)。長谷川 二葉亭(はせがわ ふたばてい)とも呼ばれる。江戸市ヶ谷生れ。彼の自筆履歴書によると、1883年2月1日から1885年12月25日まで、当時の専修学校(現在の専修大学)で学び、卒業した。また、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科入学後、同科が改組されてできた東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科を1886年1月に中退。
 坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年〜1891年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の鼻祖となった。また、ロシア文学の翻訳も多くてがけ、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。
◆山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年4月18日)は、新潟県古志郡長岡本町出身の大日本帝国海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死。
 1884年生まれの山本五十六大将は石油や航空機に注目したように時代の流れを見抜いていた。日独伊三国同盟に「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と危険を省みず反対したが、開戦にあたっては真珠湾攻撃を指揮する運命を担う。最後はブーゲンビル島で1943年に戦死。山本は多くの手紙を書いている。家族や恩師などに送った手紙が多く展示されていたが、見事な筆致である。雄渾な書体は「書は人なり」という言葉を思い出させる。「日本では出来ない視察旅行をせよ。そのため日々倹約に努めよ。語学は着任後数ヶ月程度で習得せよ」(米国駐在大使館付き武官時代)
「私は河井継之助小千谷の談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした、あの精神をもって使命に従う。軍縮は世界平和、日本の安全のため、必ず成立させねばならぬ」米内光政大臣・山本五十六次官という名コンビを組んだ上司の米内は「明察果断、大勇猛心があって、恐怖心をもち合わせがない」と山本を評している。ベンジャミン・フランクリンを尊敬していること、勝負事の処生訓を持っていたり、という一面もあった山本五十六は至誠の人だった。
◆中里 介山(なかざと かいざん、男性、1885年(明治18年)4月4日 - 1944年(昭和19年)4月28日)は、日本の小説家。本名は、中里 弥之助。
神奈川県西多摩郡羽村(現在の東京都羽村市)に精米業者の次男として生まれる。玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれたと伝えられる。生家は自由民権運動三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地であった。
キリスト教社会主義に接近し、幸徳秋水堺利彦内村鑑三、山口孤剣らの社会主義者と親交を結び、「平民新聞」へ寄稿する。一方、週刊『平民新聞』の懸賞小説に応募して佳作入選となった「何の罪」が同紙に掲載され、以降、詩や小説を同紙に発表する。週刊『平民新聞』の後継紙である『直言』では編集同人となった。また、山口孤剣や白柳秀湖らと火鞭会を結成する。このころからトルストイの影響を受け、また内村鑑三の柏木教会へも通い始める。田川大吉郎の推挙で1906年明治39年)に『都新聞』に入社、次々と小説を発表し、1909年(明治42年)には都新聞にはじめての連載小説「氷の花」を発表。後に社会主義からは離別しているが、幸徳らが処刑された「大逆事件(幸徳事件)」は、介山の交友関係者のなかからも多数の逮捕者・刑死者を出し、介山の精神にも深い影を落とした。「大逆事件」の影響は、『都新聞』の連載小説「高野の義人」と「島原城」にみられ、さらに長編『大菩薩峠』に及んでいる。1913年(大正2年)9月12日に「都新聞」で執筆を開始し、1941年(昭和16年)まで書き継がれて未完に終わった小説『大菩薩峠』は、介山の代表作である。特に、机龍之介を主人公とした「大菩薩峠」は世界有数の長編小説、41巻の未完の大作。「大菩薩峠」は、中里介山が世界最長を目指して書いた長編小説で、大正2年から昭和16年まで、約30年に亘って複数の新聞に連載した41巻の未完の大作で、作者が亡くなって連載は終わった。戦前から度々映画化され、名優大河内伝次郎や、片岡知恵蔵らも主役として出演している。大菩薩峠という名に憧れ、実際に登ったことがある。あまり登山向きの山というイメージではなく、むしろハイキングに向いた、登りやすい山という印象だった。しかし、目前に雪を冠した南アルプスの峰々が素晴らしいランドスケープを見せてくれたことが強く印象に残っている。宇津木兵馬と竜之介の決闘。主人公竜之介は生き残って極悪非道の殺人を犯し続け、ついには故郷近くで夜毎に辻斬りとして現れる。「私は人が斬りたいから生きているのだ」
◆塩月 弥栄子(しおつき やえこ、1918年4月4日 - )は、茶道家。茶道裏千家的伝名誉教授。淡交会顧問。旧姓、千。父は裏千家14世家元碩叟宗室。弟は第15世家元汎叟宗室。娘は茶道家の五藤禮子。
 茶道教室「塩月弥栄子の茶室」(東京都港区南青山5丁目1-25)、養和会を主宰。 (財)淡交会顧問、裏千家的伝名誉教授、(財)青少年研究所理事、(社)日本ブライダル事業振興協会会長、その他多数の役職を務める。著書では『冠婚葬祭入門』(光文社刊:発行部数308万部)があり、シリーズ全体(全4冊)で700万部を超える大ミリオンセラーとなり、同名でTVドラマ化、映画化もされた。その他、『弥栄子の言葉のこだわり』(淡交社刊)、『上品な話し方』(光文社刊)など多数。1962-67年には当時人気番組だったNHK私の秘密』では、レギュラー回答者として人気を博した。

◆ はてなワード  坂本龍馬 さかもとりょうま (社会)
 もっと見る幕末の討幕運動で活躍した志士。歴史上に残る活躍は最後の1年に集中している。1835年11月15日出生。元土佐藩士(郷士、後脱藩)。1867年11月15日、薩長連合、大政奉還など一連の討幕運動への関与を恨まれてか、京都の旅館「近江屋」にて暗殺される。暗殺犯は「新選組」「佐々木只三郎京都見廻組)」ひいては「中村半次郎(薩摩)」など諸説入り乱れているが、いずれも証言や類推のみで決定的な物証はなく、真相は未だ謎とされている。
(本の紹介)
 「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾 http://d.hatena.ne.jp/asin/440952058X

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