ゴールデンウィーク2日目。「ソロモン流 」 今日の賢人は阿川佐和子さん。(今日で連続210日)

 今日は5時半から、昨日に続き、畑作業。庭先の草取りも行う。今年の野菜の収穫が楽しみである。どうなるのかこれからに期待できるかな?明日は天気が良いが、谷間が心配ですね。

◆「ソロモン流 」 今日の賢人は阿川佐和子さん。(テレビ東京21:54)
 密着取材するとTBS系列全国ネットの「サワコの朝」の収録現場では吉川晃司をゲストに迎え、楽しいトークを展開していた。出演した吉川晃司は、安心して話せる懐の大きな方と印象を述べていた。阿川佐和子さんが長年培ったトークのヒントで書籍「聞く力 心をひらく35のヒント(文藝春秋)」を出版している。
・密着!阿川佐和子「聞く力」の極意とは?
 最初に阿川佐和子さんが向かったのは文藝春秋。この日は20年続く週刊文春の「阿川佐和子のこの人に会いたい」の取材で訪れた。今回、対談する篠田正浩監督の対談資料を前もってチェックし引用する内容を確認する。本当は出版したばかりの書籍紹介もあったが、篠田監督が元マラソンランナーだった事から、そちらの話が盛り上がる様子が映った。阿川は、ゲストが話したい気持ちになってくださるのが一番、面白い話が出るきっかけになると語っていた。阿川佐和子の仕事現場を取材。この日は港区浜松町の文化放送でレギュラー番組「大竹まこと ゴールデンラジオ!」の収録。大竹まことさんは、阿川佐和子さんの聞く力について「阿川さんには話したい、聞いて欲しくなる」と述べていた。阿川佐和子の作業部屋を取材。この日、作業部屋には先月、出版された阿川佐和子著書「正義のセ(角川書店」が大量に届いた。阿川佐和子は、ひたすらサインを書く姿が映っていた。また取材では、嫌いな人とのトークについて確認する為に話してみる事も大事、それでもダメな時は、やっぱりダメなんだと楽しめばいいと笑顔で答えていた。阿川佐和子が取材時に気にする事が紹介。偉そうな空気にならない為に椅子の位置を近づけるとか取材相手に対して気を使う様子も映っていた。港区六本木のテレビ朝日で「ビートたけしのTVタックル」の収録現場を取材。加熱する現場では阿川佐和子の真骨頂が紹介。自分自身では、分かっている事でも収録中にわざと知らないフリをする事がある。これは視聴者の気持ちになって代弁する事が自分の役割と考える阿川佐和子ならではの技。阿川佐和子の聞く力は「サワコの朝」でも発揮されている。ゲストに生物学者の長沼毅さんを迎えた時も視聴者の気持ちになって質問していた。阿川佐和子は自分が分からない話に進んでしまったら、視聴者も面白くないと思うと語っていた。
・59歳 本音の生き方 阿川佐和子の紆余曲折人生
 阿川佐和子の経歴が紹介。1953年に4人兄弟の2番目として生まれ、父親は文化金賞を受賞した阿川弘之氏である。父親について阿川佐和子さんは、厳しかった思い出を語りため息一つで出ていけと怒られた事があると語った。1976年に慶應義塾大学を卒業してから就職せずにお見合いの日々だった事が伝えられた。芸能界へは父親と雑誌に出た事がきっかけでリポーターの仕事の依頼から徐々にキャスターへの道に進んでいった。阿川佐和子は35歳で筑紫哲也のアシスタントとなったが、周りには安藤優子櫻井よしこ小宮悦子ら華々しいキャスターの中で複雑な思いだったという。37歳でアシスタントキャスターを降板し、38歳でワシントンで博物館のボランティアを始め、1年後には週刊文春のインタビュー連載のオファーが舞い込んだ。45歳でビートたけしのTVタックルの司会を務め、「ウメ子」で坪田譲治文学賞を受賞するなど小説家としても活躍。また、「ああ言えばこう食う」は講談社エッセイ賞を獲得した。阿川はファッションモデルとしても活躍し、婦人公論のイメージリーダーにも抜擢された。編集部の深井さんは阿川さんはいい年の取り方をしている点でも支持をされていると話した。阿川さんはこの日、千葉のゴルフ場で待望のゴルフを楽しんでいた。阿川さんは時間があればクラブを握るほどのゴルフ好きだという。阿川さんはゴルフで知り合った人と友だちになり、この日もゴルフ仲間と成田市のテッパツヤで飲み会を楽しんだ。参加していた人達は阿川さんは普段から気テレビと全然変わらないと話した。この日、阿川さんは「つや姫」のCMがきっかけで友達付き合いが続いている山形県の「四季ふぁ〜む さがえの つちや」の土屋さんらに会いに来た。土屋とは同級生で、今度は稲刈りの時に来たいと話した。
阿川佐和子に気になる質問 船越英一郎と本音トーク
 船越英一郎阿川佐和子が白金で合流し、阿川さんオススメの「クーリーズクリーク」に入った。阿川さんオススメの揚げ蒸しパンに「黒酢の酢豚」のタレを付けるメニューを堪能した。阿川さんは家庭を築くことに関しては、お見合いを多くしたが、子どもを産む能力がなくなったためそういう人生の選択もあると思っていると話した。また、職業欄に書く際にはいつも困るが、ある時女の子に自分のエッセイで励まされたと言われこれでいいと思えたという。船越は阿川さんの職業は灯台だと例えた。作家・エッセイスト 阿川佐和子
・銀座と被災地をつなげる!密着!阿川佐和子が奮闘
 阿川さんは銀座で、虎屋や東急不動産の社長らと新プロジェクトの東北の復興支援の打ち合わせを行なっていた。阿川さんは被災地と銀座に絆を作ることを考案した。まだ復興が進まない気仙沼市で寿司屋の店主をしていた鈴木さんは震災で店を失った。鈴木さんは同じように店を失った人と「流され寿司」を結成し、全国約30ヶ所で復興イベントに参加している。阿川さんは鈴木さんらの精神に心打たれ、この日はキックオフイベントに参加した。阿川佐和子が実行委員長を務める被災地支援プロジェクト「やっぱ銀座だべ」。今日はそのお披露目イベントなだけに中央区銀座の会場にも、銀座 久兵衛木挽町 とも樹、銀座 寿司幸が手弁当で参加した。そして会場にはもちろんあの流され寿司もあった。気仙沼商工会の臼井賢志さんは、阿川佐和子さんが気さくにやっていただいたその分私たちも必ず応えていかなければと話した。阿川佐和子が辿り着いたのは中央区銀座にある「数寄屋橋公園」。この日はチャリティー物産展を開催していた。阿川佐和子さんが自ら販売を勝って出てこの日も沢山の笑顔を届けていた。阿川佐和子さんには聴く力だけでなく、人をまとめる力もあった。
・先の事より今を楽しむ
 阿川佐和子さんは目標はなく先の事より今を楽しむと話した。また阿川佐和子さんは新たな仕事・翻訳を始めていた。話して楽しかったと思えるような聞き手になりたいという阿川佐和子さん。本音を引き出すインタビューをこれからも楽しみにしたい。


(4月28日生まれの偉人)
◆島津 斉彬(しまづ なりあきら、文化6年3月14日(1809年4月28日)〜安政5年7月16日(1858年8月24日))は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。島津氏第28代当主。薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。
◆佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正〜昭和初期の洋画家。大阪市生まれ。
菊池寛実(きくちひろみ、?885年4月28日(明治18年4月28日)−1967)は、 明治-昭和時代の実業家。日光水力電気開発の創立にくわわる。明治42年から福島県の辰ノ口(たつのくち)炭鉱,三友炭鉱を経営し,大正6年東洋濾紙を設立。
 腕一本で現在に換算すると数千億円の資産を築いた実業家・菊池寛実は、大谷米太郎ホテルニューオータニ建設)と南俊二(大阪造船社長)とともに「戦後の三長者」ジャーナリズムから名付けられた人物である。この人物の名前を冠した美術館が、ホテルオークラ本館と別館の間の坂を下ったところに建っており、その傍らに当時の住居の一部が保存してある。菊池のための持仏堂と近代的な西久保ビル、そして大正時代に建てられた西洋館と和風の蔵がある。この西久保ビルの地下に「菊池寛実記念美術館」がある。菊池は政治家・田中正造、民権運動の急先鋒の幸徳秋水片山潜という体制批判の人たちとの交遊をしつつ、実業家としての存在を大きくしていった。そして財産を有為の政治家達に提供して何の見返りも要求しなかった。首相にまでなった「小日本主義」を唱えた石橋湛山を強く支えてもいる。
<「怒濤のごとく-菊池寛実の不屈の生涯」(早乙女貢著・原書房)から。>
 足尾鉱山の鉱毒事件に際し、明治政府に対し抗議の運動の先頭に立った田中正造は、第一回の帝国議会から衆議院議員として毎回当選している。その田中正造は若き菊池に次のように語っている。「政治家として自分の信じるところをあくまで主張して筋を曲げないためには、充分な私財をもってだれからも拘束されないことが絶対に必要だ。もしそれだけの私財ができなければ、逆に自分のように無一文の裸一貫で徹底的に人の喜捨をうけてやるがよい。そのいずれかに徹しきれないならば、政治家になることをあきらめることだ。」上京して隅田川の貨物駅で石炭の積み下ろしをやっていた頃、石炭のノウハウを身につけている。それが一生の仕事として石炭に取り組むことになる。石炭という時代のエネルギーに目をつけたことが、成功の遠因だった。得た金を産業のなかの目ぼしいものに目をつけて、株を買い、その中でも、これはと狙ったものを多量に買い増して、取締役になった。「金銭は世のたからなり貯えて 人のためともなずぞ尊き」」(菊池の金銭哲学の基)菊池の会社は収益が増えた。それを元手に他の会社をいくつも買収して事業を広げていった。石炭業で得た利益は、これと見込んだ事業への投資にあてられた。ほとんど株式である。上がりそうな株を買うのではなく、上げられる株に手を出している。人間関係の信頼のむずかしさは、金銭欲にはばまれることだが、菊池の信条は人を裏切らないとことにあった。「土地は焼けないからな」株を買うにしても、キワモノには手を出さない。由緒ある会社なり、人物を見込んでの将来性に賭けるのである。事業の成功でかなりの金を動かせるようになると、惜しみなく人々を援助した。、、「金というものは、困った人を救うためにある。自分のものではなく、社会に還元すべきものだ」おのれの地位名誉を求めず、健全な社会の発展をねがう実業家魂である。自分が社長になりたがる者の多いなかで、有為の人材を社長や主役陣に配置するのに長けていた。