日本テレビ「action!日本を動かすプロジェクト 」より日本の現状をみる。 「人物記念館の旅、500館を達成して」(久恒啓一氏)知研フォーラムより。

◆「action!日本を動かすプロジェクト 」から
●「未来が真っ暗…1年前に出会った女性は今」
 1年前に出会った働く女性林美乃里さんに密着。林さんは大学卒業時に正社員を希望したが就職できなかった。林さんは今でもアルバイトで働いている、履歴がない自分が悔しいと語った。非正規労働者の数は過去最高の1900万人を記録している。また、働く女性の間では、東京杉並区で入園に対して抗議の声があがっている。東京杉並区で認可保育所への応募が定員の3倍近い応募があり、1800人近くが入園できず異議申立てが行われた。先週金曜日、安倍首相は働く女性に対する支援を経済団体に要請した。政府の方針に対して、町の人たちからは様々な声が出た。先週金曜日、安倍首相が女性の働きやすい環境を掲げた。スウェーデンストックホルムでは、夫婦で交代で育児休暇をとる制度で既に実現させている。スウェーデンSEB銀行で働く女性は、育児休業制度が必要だと話し、上司は企業側にもメリットがあると語った。また、スウェーデンでは年金制度も女性が働く理由となっている。高福祉、高負担の国スウェーデンでは、年収の約36%が税金として負担されている。また、財務省の調べでは国民に対する税などの割合が日本に比べて高い。スウェーデンで働く女性は、育児休業手当などとして戻ってくることで循環していると話した。先週金曜日、安倍首相が女性の働きやすい環境を掲げた。スウェーデンでは国民が高い負担をすることで女性のキャリアアップの仕組みを実現させている。ストックホルムにある企業「テングボム」は、部門のトップの半数が女性。スウェーデンには教育休暇法があり、多くの女性が休暇をとって教育を受けている。そのことからスウェーデンでは女性の管理職の割合が31.8%を占めるようになった。
 福澤朗らがスウェーデンの女性雇用の仕組みについてトーク又吉直樹は育児休暇などは良いが税金が高くなるので日本が急に変わっても無理だと話した。尾木直樹非正規労働者の雇用状態や育児休業のあり方を柔軟性に見て欲しいと語った。村尾信尚が安倍首相が行った女性の雇用の要請について解説。安倍首相は、現在の育児休暇を延長、女性役員の登用を要請した。村尾はアベノミクスの経済成長での女性の活用の方向性は正しいと話し、育児休暇の延長によって不安が生まれていると語った。甘利明は育児休暇を多く取りたいと話す女性は多く、長く育児休暇をとっても復帰できることを支援すると語った。甘利明が育児休暇を3歳まで延長することについてトーク。遅く出社して早く退社する制度や、会社が保育所を簡易に作り国が支援することで、子どもを持ちながら働けることとちゃんと復帰できる環境を整備することが必要だと語った。村尾信尚が非正規雇用の人が3年休むと職場復帰できない不安があるのではないかとトーク甘利明は非正規雇用と正規の格差を埋めなければならず、両方の要望が合う場所で環境整備をしていくと話した。村尾信尚が経済成長における転職についてトーク。村尾は転職における不安が大きいと話し。甘利明は、移動するときにスキルアップなどがスムーズにすることが大切で、企業にも負担はあるが企業側もしっかりしなければならないと語った。村尾信尚社会保障と従業員の関係についてトーク甘利明は、1つの考え方として社会保障を全部国が引き受けることもあるが、膨大なお金がかかるので社会を構成する要因はそれぞれが負って下さいという仕組みだと話した。また、企業が長く研究開発をできる体制を作ることが大切だと語った。辛坊治郎は、専業主婦の年金について全体で見た時に逆に進んでいるのではないかと質問。甘利明は、今までは女性は家庭を守る仕事を認めることが制度だったが、現在は働くことと専業主婦に優劣をつけない制度だと語った。
●「”日本ブランド”世界に勝つ 介護ロボットが高齢化救うか」
 今介護ロボットが注目を集めている。先月ロボットスーツと対面した安倍首相は成長戦略の1つに介護ロボットの開発を挙げた。現在、テムザックでは車椅子型の介護ロボット「ロデム」が開発されている。厚生労働省は安全性に不安があると話した。福岡県宗像市にあるテムザックに密着。主力ロボットは遠隔操作もできる「援竜」などがある。現在力を入れているのは車椅子型の「ロデム」。高本陽一社長は九州大学病院からベッドから車椅子への乗り移りが大変だと相談を受けて開発したことを話した。高本社長は、3年前に当時のデンマーク首相から共同開発を持ちかけられた。ファボーミッドフュンの介護施設ではリフトが使われている。高本社長はクリスティーナ・ヴィライソンさんと相談し、ロデムの実証試験が行われた。高本社長が在宅介護を受けている人を訪れた。高本社長は高齢者に介護ロボットを見てもらいデータを集めた。共同開発している九州大学病院の高杉紳一郎准教授は日本では、完全に安全なものが出来上がるまでにラグがあることを話した。日本は安全性が重視され、欧米などよりも2年遅れている。厚生労働省は介護の現場でデバイスラグが起きていることを認めている。デンマークでは介護ロボットの導入が進んでいる。オーフスにある高齢者の介護施設ではロボットを使ったリハビリが行われている。また、韓国でも介護ロボットの開発が進められていて、デンマークと共同でシルボットを製作している。キム・ムンサン博士は今後老人ケアロボットなどに力を入れることを話した。テムザックの高本陽一社長がサウジアラビアを訪れた。サウジアラビアは現在、ロボットを求めていてる。高本社長はサウジアラビアでの開発は、頭脳流出と言われるかもしれないが、日本で死ねと言われるわけにはいかないと話した。
 福澤朗らが介護ロボットについてトーク又吉直樹は時既に遅しを芸人の活動に例えて話し、尾木直樹も技術が遅れていると話した。また、又吉がHONDAの「リズム歩行アシスト」を体験。さらに東京理科大学の「マッスルスーツ」が登場し尾木が体験した。続いて、テレノイドR1が登場。人の首の動きを真似るロボットで又吉が体験、声も連動させることができる。
甘利明が成長戦略の点から見た介護ロボットについてトーク。日本のロボット開発における環境整備をしなければなないと話し、福澤は開発までに時間がかかり過ぎていると語った。甘利明薬事法を改正し、医療用機器は別のルールを設けると話した。福澤は、技術の海外流出についてトーク甘利明は、日本は技術はあるのに産業化などで負けることが一番の問題だと話し、福澤は法人税の見直しも必要ではないかと語った。辛坊治郎が、日本はひとつのミスがあると徹底的に叩くことを反省しなければならないと話した。村尾信尚は安全性を重視することも大切だがバランスのとれた判断をしてほしいと語った。
●「幸福度ランキング 第1位は?」
 日本総合研究所が行った日本でいちばんいい県都道府県別幸福度ランキングを発表。(「日本でいちばんいい県 都道府県別 幸福度ランキング」http://www.terashima-bunko.com/terashima/book-info/971-ranking2012.html〜 本文より 〜ふるさとを去り都会に出てきた人間が、一抹の救いを感じて分配に加勢したというのが、これまでの日本の分配構造だった。しかし、今回の解析指標を見ると、分配に関する新たな思想哲学が問われていることを強く感じる。ここで私たちは、改めて、何をもって地域の幸福とするのかを問いたい。都会の、都会による、都会のための政治を是とするのでなく、多様性や豊かさを活かした幸福感についてより深く思考したいと思うのだ。) 
第10位は岐阜県、第9位は石川県。兼六園の池はパワースポットとなっている。幸福度ランキングを一覧で紹介。第1位は長野県(「MSN産経ニュース(Web)」2013年1月25日 長野県が幸福度全国1位 知事も会合で高い評価 http://sankei.jp.msn.com/region/news/130125/ngn13012502410000-n1.htm)。厚生労働省によると長野県は長寿日本一。さらに文部科学省によると体育・スポーツ施設数が日本一。軽井沢に新しく出来たカーリング施設では、軽井沢カーリング少年団などが練習を行なっている。福澤朗らが出演者の都道府県の幸福度ランキングを紹介。又吉直樹大阪府の順位が低いと話した。また、夏目三久らが幸せについて語った。
●「ニッポンの農業の未来 光でレタスの味が変わる?」
 現在、日本の農業は衰退に向かっている。そうした中、玉川大学ではLEDライトを使った農業が進められている。渡邊博之教授はLEDライトの色で野菜が変化すると話した。一方で千葉県の柏市では橋本英介さんが後継者のいない農地を耕している。小規模な田んぼをひとつにして大規模化し、コストを下げて儲かる仕組みを作ることは国が提唱してきたが、50年経った今も進んでいないのが現状。伊藤保研究員は耕作放棄地がバラバラになったりしているので集約が進まないと語った。愛知県・大府市にある「げんきの郷」の直場所には年間200万人の人が訪れる。高木幹夫さんは消費者が望んでいる味を考えることが大切だと話した。地元の野菜を使ったコメ粉のクレープなどが人気を集めている。みかん農業では6次産業が行われている。国は6次産業の規模を大きくすることを掲げているが、三菱総研の伊藤保研究員は成功例は限られていることを話した。現在衰退の恐れがある日本の農業だが、兵庫県の神戸市に住む浅川元子さんは40歳で農業を始めた。浅川さんは食べ物を作る仕事がしたいと思い転職したことを語った。農業は現在、改革が求められている
 林芳正が牛肉など”聖域”5品目の関税率が維持されるかどうかについて説明。林芳正は交渉はやってみなくては分からないが、全部守るつもりで、国益が守れないとすれば交渉から脱退も辞さないと話した。農業人口の推移と平均年齢に対して林芳正が原因等を説明。農業人口は減少しており、農家の平均年齢は上がっていた。林芳正自民党の政策を反省し、どうしてこうなったかを分析している段階で、今後はコメの需要を拡大していく必要があり、餌米へのサポートの必要性等について話した。
 林芳正が農業対策に対する巨額費用や新規参入阻む農地法改革について語った。林芳正は農業界の現状を説明し、大きい規模ならやりたい人がいるので、小規模な農地を集めて一つの大きな区画にしてから話をするという活動を行なっていこうとしている、と話した。又吉直樹尾木直樹はTPP等の話についての感想を語った。また、村尾信尚が国内人口が減少していく中で、日本の福島第一原発事故風評被害等に対する対策を訊いたところ、林芳正は中国とのやり取りについて話し、今後の目指とすべき農業スタイルのビジョン等について語った。
●「忍び寄るインフラ老朽化 その瞬間、橋が…。」
 去年12月笹子トンネルで天井崩落事故が起きた。トンネルなどの建築物には寿命がある。八戸工業大学の実験室に鉄筋コンクリートの塊が運び込まれた。完成から76年の橋げたで、負荷をかけて強度や劣化状況を調べたところ、実験開始から1時間で橋げたは壊れた。八戸工業大学は実験結果を参考に補修工事に生かしていくとしている。また、インフラは東京五輪などの時代から次々と作られて、今は首都高速道路 1号羽田線など老朽化をむかえている。首都高速道路は約7000か所で補修が必要とされており、東邦大学の根本祐二教授はインフラの寿命の目安等について語った。去年12月、中央自動車道の笹子トンネルで天井板が崩落し、9人が犠牲となった。トンネル開通から35年ということもあり、事故の原因として老朽化も指摘されている。根本祐二教授が早急な対策をしなければ同じ事故が増えると訴えた。事実、今月5日に東京・町田市で水道管が破裂し、去年1月には長野県栄村で築49年の橋が雪の重みで崩落している。他にも、沖縄県国頭村では老朽化により通行止めになっていた橋が崩落している。忍び寄るインフラの危機に対し安倍晋三首相は強靭な国づくりを進めていくと発言しているが、具体的な対策は立っていない。今年2月、静岡県浜松市の山間部で歩行者用の吊り橋が突然傾き、橋にいた高校生6人が軽傷を負った。原因は老朽化によるケーブルの破損。吊り橋の完成から48年が経っていた。現在、その吊り橋は落下の危険があるため撤去されている。地元住民からは橋の架け替えを願う声もあるが、鈴木康友市長は1日に何百人も使う橋ではないため早急な対応はできないと説明した。浜松市役所では現在約6000橋もの橋梁を管理しており、その7割が20年後に完成から50年経つことになっている。鈴木市長は他の予算との関係を考えると、インフラ整備だけに財源をかけるわけにはいかないと話した。
 各自治体がインフラに悩む中、東京・府中市は全国に先駆けて、将来かかるコストを予測してインフラマネジメント計画を冊子にまとめている。また、インフラの点検の問題として人材や技術不足が挙げられるが、府中市では国際航業など民間企業の力を借りてインフラ整備を進めている。さらに、これまで府中市はインフラに対して事後保全を行っていたが、予防保全という新たな管理方法で補修コストを抑え、インフラ自体が長持ちするようにした。東洋大学の根本祐二教授がインフラの維持管理コストを大幅に削減するコンパクトシティについて説明した。町の機能を集約し、インフラの維持管理コストを減らすコンパクトシティ。その計画が被災地・宮城県山元町で進んでいる。町では山元いちご農園などで収穫の時期を迎え、いちご狩りを楽しむ人々の姿があった。町では南北に走る国道6号と内陸への移設を予定するJR常磐線の交通網を中心に、3ヶ所のコンパクトシティを作る計画が進められている。少子高齢化・人口減少が大きな課題となっている山元町では、少なくなる人口の中でインフラの維持管理をしなければならない。コンパクトシティは住民の負担を軽減する目的もあることを齋藤俊夫町長が説明した。しかし、元々住んでいた場所の近くに戻りたいという声もあり、今後住民と話し合って計画を進めていく予定。
 又吉直樹コンパクトシティは賛成だが思い入れのある土地がなくなるような気もして怖いと述べた。また、インフラの老朽化について尾木直樹が新しい町づくりという視点で考えていくことが大切と述べた。政府は昨年度の補正予算案で初めて、防災・安全交付金を新設し今年度の予算案でも約1兆円をあて、全国の自治体がインフラの総点検を進めるのを支援することにしている。
<視聴者からの意見紹介>
「まだまだアベノミクスを実感できない」、「各会社に保育所があればいいと思う」、「就職できるか不安」など、視聴者からの意見を紹介した。

◆「人物記念館の旅、500館を達成して」(久恒啓一氏)知研フォーラムより。
「図解コミュニケーション」という分野を開拓し始めてもう20年以上経ちます。このままこれだけをずっとやっていいのかなという感じがしていて、何かもうひとつ欲しいなと考えていました。2005年から、人物記念館巡りをしてみようと思いついて、以来、8年間ずっとやっています。私は、昔からいつも二本足で立とうと思っていました。勤めている時期も勤務先の仕事と知研活動をやってきました。大学教員になってからもさらに一本で立たないように、バランスをとりながらやろうと思っていました。私のライフワークの一つは「図解」ですから当然これはずっと続けなくてはならない。これは日本人の「アタマの革命」を目指す事業です。しかし、一方の人物記念館巡りは日本人の「ココロの革命」と位置づけし、いずれ心の問題の方が大事になってくるだろうという予想の下に始めました。これが人物記念館の旅です。海外の旅は、学生時代に考えた方法があってこれにのっとってやっています。それは梅棹忠夫先生の「生態の文明史観」を確認する旅です。壁に世界の白地図を貼り、訪れた国はそれを塗りつぶしていくということをやってきました。ところが日本の旅はどうしたらいいのか。観光地をめぐって温泉に入り飯を食って騒ぐ。そんな類いのことをいつまでも続けていいのか。何か物足りないと思っていました。そして、8年前に人物記念館をまわる旅をしていこうと考えるようになったのです。本格的に始めたのが2005年の1月からです。郷里の大分県中津市福沢諭吉記念館を訪ねました。それから始めたわけです。
<なぜ人物記念館の旅が続いたか>
 これがなぜ続いたかというと、ブログという表現手段が出てきたのがきかっけでした。当時楽天球団が仙台に来るというので、なにか楽天に関係したことから始めようと思った。ちょうどブログが始まったのがその時期です。「よし、ブログをやろう」ということで始めました。2004年9月24日から始めました。最初は2,3行で日誌を書いていました。そして1か月続いたんです。それならばもっと続けてみようということで、その後ブログは1日も休みなく書いています。自分でも不思議な感じがするんですが、明日の2012年の12月15日はいよいよ3000日連続記入の日です。今日はその前の日です。3000日というのは8年以上にわたり毎日書き続けてきたということです。とにかく書かねばいけませんから、例えば記念館に行っても翌日にはすぐ書くことを心掛けてきました。
 その場でメモを取って、帰りにそこでもらった資料や入手した本などを読み込みながら、翌朝それを書くというリズムになりました。ですから本の読み方なども変わってきて、実学的に読んでいます。教養主義で読んでいるわけではありません。ブログを書くためのエキスを取ろうとして書いています。ファンである松井秀喜選手の1768試合連続出場記録というのがあります。これを抜こうと大言壮語していました。いつの間にか、これを抜きました。次に2000本安打を目安とし、ということで、だんだん増えていき、明日の時点で3000安打に並ぶ。これを越えるプロ野球の安打記録は張本の3085本、イチローの3706本ということなのでこれも近々抜けるでしょう。人物記念館は500館を越えました。500館目は斎藤茂吉でした。現在511館ですが、500本以上、ホームランを打った人は日本の歴代9人しかいないんですね。衣笠とか、張本とか、松井とか落合とかで、511本以上打った人は、9人しか居ません。清原の525本、山本浩二536本、角田567本、野村657本、王貞治863本ということで1000本をねらうとすると、王の記録を抜くことになるのではないかと思っています。
 100館越えた時に、これ何やっているんだろうかと考えました。日本には昔から100説という言葉があります。何事も100やると一人前になるというか入門を過ぎたというか、そういう段階になる。あらゆる稽古事でそう言われます。山でも日本では百名山というのがあるように100というのは大事な数字なのです。200館を越え、300館を越えて来たときに、おまえ何やって居るんだろということになる。アスキー創業者の西和彦さんが昔八木さんに、「久恒さんが変なことを始めたらしいが、どんな意味なんだろうね。バカなことをやってる」と言ったそうです。だけど僕にしてみたらすごく面白いんです。やめられなくなっているわけです。200館、300館になったとき、これは「巡礼」ではないかと思うようになりました。それで巡礼ということは何かと調べるとなかなかわからない。いろいろ本を読んでいるときに、白洲正子が『西国巡礼』という本を書いているんですね。いっしょに回った免疫学者の多田富雄さんが、これは自己発見の旅だと書いていた。これを読んで腑に落ちました。いろんな人記念館で偉人に会いますね、するとかならず自分との対比でものを考えることになります。この人はこの年齢まで何をしていたが、何をテーマにしていたか、を知って自分の人生を確認するような感じがあって、まさに聖人の巡礼の旅です。
<現地に行かなければわからないことがある>
 この旅は、2005年から仙台で始めました。5、6,7年と。2008年4月に東京に来たのですが、仙台時代に回ったところよりも、もう東京に来てからの方が多くなりました。現在時点で511館です。最近では、山中湖にある三島由紀夫の記念館や、河口湖にあるブリキのおもちゃで有名な北原照久の記念館を訪ねました。小池邦夫、この人は絵手紙を普及した人です。絵手紙人口は今150万人ですが、徒手空拳から始めて150万人を巻き込んだ人です。岡田紅陽、この人は写真家なんですが、富士山だけを撮りつづけた。40年、50年にわたって富士山だけ撮り続けた。今の千円札の裏にある富士山はこの人の作品です。本栖湖からとった富士山。何事かを一筋にやるということは大変なことです。今日はこの話を学生にしてきました。何でもいいから続けろ、そのことがやっぱりすばらしいんだ、岡田紅陽の作品は富士山の写真がすばらしいのですが、川端康成がこう言っているんですね。古今の歴史の中で富士山が1番素晴らしい対象だ。富士山に向き合った絵描きがいた、歌読みがいた。しかし、生涯を掛けて富士山だけに立ち向かったのは人はこの人しかいないと。
 グアム島で28年間の穴倉生活を送った横井庄一の記念館が名古屋にあります。これは奥さんが無料で自宅を開放してやっています。大変素晴らしい奥さんでしたが、そこで話を聞くと本当に感動するんですね。私はあまりにもすばらしかったので1万円置いて来たんですが、向こうがまちがってうけとった感じになってお礼の手紙をいただきました。この奥さんは私の母と同い年でした。
 森鴎外記念館は千駄ケ谷に新しくできました。これもなかなかいいです。仙台の亀井文蔵という人がいます。亀井文蔵は仙台の有力な会社の創業者です。子供の時からずっと蝶を追いかけている。そして蝶の博物館を作っている。あるいは徳富蘆花の記念館の一つは伊香保温泉にあります。古橋広之進は浜松です。阿久悠の記念館はお茶の水明治大学のビルの地下にあります。今日は立花隆は書棚の写真展をやっていたので、行ってきました。粉川弘はゲーテの記念館をつくろうと一生をかけた人です。新島襄生家は安中にある。徳島ではもう一人のラフカディア・ハーンといわれるモラエスの記念館。こうしたところをずっと訪ねてきているわけです。わざわざ行く場合もありますが、講演のときをかねて行ったり、家族と一緒に旅行に行ったときにまわたりします。九州に帰った時はおふくろを連れてまわっています。今年は57館、昨年は67館でした。横綱柏戸記念館というのがあるんです。藤沢周平記念館と同じ鶴岡にありました。巨人、大鵬、卵焼きというでしょ。阪神柏戸、目玉焼きというのもあるんです。(笑い)。そういうことなどは現地に行かないとわからない。トヨタは名古屋に立派なものがありましたし、2010年は住友とか大倉とか、菊池寛実とか大田誠三とか、経営者の作った美術館を訪ねました。
<経営者は美術館を遺している>
 経営者は何を残すかというテーマで調べたところ、皆美術館を残した人が多い。日本の明治以降の優れた経営者は美術館を多く残しています。これはだれの影響かというと、渋沢栄一です。渋沢栄一アメリカにつれていったのですね。そのことがずっと影響を受けている。畠山清和、原邦造、岩崎弥之介などみんな美術館を残しています。それから新撰組土方歳三、佐藤甚三郎、これは多摩の日野市です。2009年には森繁久弥の企画展、また平櫛田中の記念館に行った。2008年は、水戸の水戸光圀、2006年は新渡戸稲造柳宗悦だの、池波正太郎。こういう過程で、わかった一番重要なポイントは何かと言うと、人間の偉さとは何力かということです。
<人間の偉さを何ではかるか>
 どうしてこの人は偉いのだろうか。私が考えた結論は偉さとは人に与える影響力の大きさの量で決まるということです。深い影響を身近な人に与える。これは影響力が大きいか。だから偉い人なのです。同時代の人に広く影響を与える。本を書く、講演をする、有名になる、これも大きな影響を与えるわけです。サッカー選手でもものすごく大きな影響を与えていますね。たから偉い人は深く影響を与え、なおかつ広く影響を与える人です。そしてもう1つ要件があります。それは長く影響を与えるということです。つまり長生きをしてある分野で相当な人になる。長く仕事をした場合は影響が非常に大きいんですね。たとえば平櫛田中、107歳まで余人のできない仕事をした。そういう人はたくさんいます。野田一夫先生は85歳ですが、まだ現役です。あの人は30歳でベストセラーを書いています。つまり55年にわたって第一線で活躍している偉い人です。もうひとつ。死んでしまうと、どうなるか。死んでもその影響は残るんですね。優れた業績を上げた人の影響は永く残ります。したがって後世にも影響をあたえる人が一番偉いことになります。影響力とは、広さ×深さ×長さの総量である。長さは歴史的な時間も含んでいると考えたらいいのではないか。こうなるとだいたい分かるんです。この人の偉さはどの位かということが。私の考えでは日本の近代で一番偉いのは誰か。明治、大正、昭和を中心に活躍した人を中心に回っていますが、ときどき江戸時代とか、平安時代小野道風などが入ります。しかし小野道風くらいになるとイメージが湧きません。しかし影響は今日に至るまで知らず知らずに受け手います。彼は和様の書を開発しているのです。その一世代前の空海は唐風で書くわけですね。日本の歴史の中では、外来文化が入ったときには必ずそれに影響されて負けるのですが、その後何十年かたつとやがて日本独自のものをやろうとしてきます。明治もそうです。一時全部洋風になります。その後日本画などの復興画の最高作品が出て来ます。
<日本の近代で一番偉いのは福沢諭吉
 近代では福沢諭吉一番偉い。なぜかというと福沢は当時、あの人から教えられた人は皆影響を受けています。あの人は身近な人々にたくさん影響を与えました。中津の出身ですけれども、慶応義塾をつくって中津の有能な人を皆連れて行った。明治の経営者で有名な人たちは中津出身者が多い。ほとんどの人が福沢門下で育った人です。小田急もそうですし、鐘紡もそうです。中津のような小さな町からどうしてあんなに偉い人がたくさん出たのか。福沢諭吉の影響ですね。福沢山脈といわれるくらい膨大な人脈を作ったんですね。それが今にも連綿と続いています。福沢諭吉がなぜ一番偉くなったかというと慶應義塾をつくったからです。当時、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」と言われたそうです。福沢という文部卿は変わらない。実質的な文部卿は文部行政に長く大きな影響を与えた。慶應は今でも栄えています。だから福沢先生の影響を受けた人は物凄く多いわけです。中央で有名にならなかった人でも皆田舎に帰った。そしてそれぞれの土地の経済人になってまた影響を与えています。これほど大きな影響を与えた人は福沢諭吉以外にはない。
後藤新平北里柴三郎犬猿の仲から親友へ。>
 後藤新平は東北の水沢の出身ですが、ものすごく不良だったんです。男前で女癖が悪い不良なんですね。この人はともかく面白い人で、いろいろな逸話がいっぱいあります。大きく言うと台湾という植民地を9年で黒字化した初めての人です。日本の植民地で台湾が黒字になったのは始めてなんです。そのあと50歳で満州に行って満鉄総裁になります。帰ってきて、大臣を歴任しますが、関東大震災では東京の帝都復興院総裁をやっています。後藤新平のライバルがいました。それが北里柴三郎です。後藤はもともと医者なんです。北里も医者です。後藤新平須賀川の医療専門学校の出身です。北里は熊本の出身で東大の医学部の出身です。お互いに内務省に入りますが、後藤が先に入ります。お互い鼻っ柱が強くてよく喧嘩をしています。あの無教養な後藤新平、学歴ばかりで何もできない北里と互いに悪口を言い合っていた。犬猿の仲といってよいほど互いに嫌っていた。ところが二人はドイツで一緒になる。北里が先にコッホの研究室に行くわけですが、後藤もそのあと行きます。そこでまた喧嘩をするんですが、仲良くなるんです。無二の親友になります。北里はドイツにそのままいたら世界的な学者になったと思われますが、帰国して東大から嫌われるんです。北里は、研究所をつくりたいが、金がないし、コネもない。土地がない。後藤新平はよしと言って福沢諭吉にたのんで、福沢の土地を無償でもらうんです。それが北里研究所をつくった。北里は日本で有数の医療の改革者になります。その後、福沢が亡くなります。慶應義塾は発展しますが、医学部が無かった。医学部を作ろうとしていたが、だれも医学部を作れなかった。聞いた北里はならば自分がやりましょうと言って慶應義塾の医学部の初代学部長になります。そして11年間無給でやるんです。福沢先生の恩に報いるために11年間無給で働き基礎を作ったわけですね。その後、慶応大学は小泉信三が塾長になって出て、中興の祖になります。名塾長でした。つい最近まで小泉信三が使った机を歴代の塾長はずっと使っていました。
 この前、群馬の富岡製糸工場に行きました。もともと絹織物の工場ですが、世界であれだけ建物の原型がのこっているところはありません。なぜ残ったかというと、片倉製作所が残したからです。もともと国営ではじまって三井がひきとって、横浜の原三溪が引き取って、そのあと片倉が買うんですね。片倉には手に入れたものは絶対につぶさないという経営理念がありました。だからこれをつぶさないで、残した。ここでも渋沢栄一が富岡製糸工場の創設にかかわっていました。最初は官営でしたが、後に民営化するために三井に出す。中上川彦次郎が経営にかかわる。中津の人です。福沢諭吉の甥です。三井中興の人です。驚いたことに、大分県中津市女工が15人、ここで働いていたことが分かりました。富岡製糸工場が始まったのは明治5年です。近代的な工場でフランス人がやっていました。彼らが飲んでいるワインは女工の血だ。それを毎日飲んでいる、という噂がたっていました。だから誰も勤めたがりませんでした。そこで全国の武士たちが自分の娘を無理矢理行かせました。中津からは行った女性たちは福沢先生に挨拶している。何年か働いて帰っています。中津には富士紡績の工場がありました。それをつくることに力を貸したのでしょう。そのときに増田シカと中年の女性のリーダーが来ていました。中津には福沢諭吉ともうひとり増田宗太郎という人がいて、福沢諭吉の甥なんですが、福沢を殺そうとした人です。右翼的な思想の持ち主だった。この人は西南戦争の時に西郷隆盛の軍に入ります。戦死します。戦いが終わって中津隊が戻ろうとしたときに、皆戻れ、俺だけ残って死ぬと言った。なぜかというと西郷に一日接すると、死ぬしかないんだと、この人の奥さんが増田シカなんです。増田宗太郎は、自分は死ぬ人間だからと言って奥さんに手をつけなかったんですね。ですからシカは処女のままだったのではないかと言われています。その人が富岡に来ていたんですね。驚きました。福沢諭吉大隈重信とものすごく仲がよく肝胆相照らす仲でした。福沢が先に死にますが、大隈とのやりとりがのこっています。福沢先生が亡くなりました。一切弔問は要らないと言うことでしたから、庭の椿を自ら切って贈ったというような逸話が残っています。
<日本の資本主義の基礎をつくった渋沢栄一
 もう1人偉いのは渋沢栄一です。500社をつくった。日本の会社のほとんどは渋沢栄一の影響を受けているといってもいいほどです。この人は大蔵省にいました。末は大蔵大臣になってもよい人物でしたが、途中でやめるんです。官が威張って民が卑屈な状態でいかん、自分が民間の資本主義の手本を示すといって、自分でやるわけです。民間の経営者で業績を上げた人は男爵までいきましたが、渋沢栄一だけは特別で子爵になっています。そして、渋沢の偉さは財閥をつくらなかったことです。彼は大学をつくったり、学校をつくりました。また社会事業をやりました。日本のそういう方面の基礎は渋沢栄一がつくった。もうひとつ偉いと思うのは、彼は水戸藩徳川慶喜に仕えました。慶喜が隠居しても最後までこの人に忠誠を尽くしました。明治政府から出て来いと言われても行こうとしなかった。しかし徳川慶喜から行って仕事をしろと言われて行くわけです。この人の偉さはずっと主君を守ったことです。青森県の三沢というところに、渋沢公園というのがあります。渋沢栄一の教えを受けた大公園で、そこに徳川慶喜にちなんだものがあります。渋沢家で修業をした人が営んだ大ホテルの経営者が作った公園があります。ここに慶喜の伝記がありました。それは渋沢の仕事です。一方で事業家に社会貢献をしろと言ったんです。それで名の知れた経営者は美術館を作りました。住友も三井、三菱も全部つくっています。今現在、日本はどういうことになっているからというと、日本は世界トップクラスの数の美術館がある国です。近年全国で美術館ができました。これほど大勢の国民が美術館に接する機会は世界にはないのではないか、と言われています。この基礎をつくったのが渋沢栄一です。
<スポーツ界の偉人>
 こういうことを話し出すとときりがありませんが、最近の話でいうと、日本はロンドンオリンピックで史上最多のメダル獲得をしました。1番ダメだったのは柔道でした。そして水泳が飛翔しました。この例を人物記念館からみるとどうなるか。柔道は嘉納治五郎が始めました。1860年生まれです。彼は講道館を作りました。9人でほんの10畳くらいの小さな道場で始めました。この人は帝大を出て何になろうか考えるんです。総理大臣になってもたかが知れている、かけがいのない生涯を捧げるには何がいいか、それは教育である。教育を自分の生涯にかけようと決めるわけです。この人は東京高等師範学校の校長を累計25年間やるんです。嘉納の教育を25年間にわたって受けた人たちが全国に散って校長になったわけです。彼は日本最初のオリンピック委員なんです。クーベルタン男爵から直接誘われるのです。1940年には東京でオリンピックがあるはずでした。この幻のオリンピックの招致に成功するのです。これはアジア初です。ヘルシンキをおさえて36対27で勝つわけですね。しかし日中戦争が始まったので返上せざるを得なくなりました。この人はカイロの総会から帰国途上で氷川丸で亡くなる。1964年のオリンピックで男子柔道が始まります。女子はもっと遅く、1992年のバルセロナでした。嘉納治五郎の努力が東京オリンピックでの成功につながっていく。講道館は一本勝負です。高専柔道というのがあってこれは寝技なのです。日本が講道館柔道をやっていたときに、国際柔道連盟は寝技に取り組んだ。寝技に一本がやぶれたのが今回の結果です。今回は男子は銀2個、銅2個でした。惨敗といわれましたが、そうではなくて、北京ではもっと少なかったので、これは負けたのではなくて一生懸命やったんだという説もあります。山口香がそう言っていました。
水泳は古橋広之進です。1928生まれ。フジヤマのトビウオと言われました。この人も幻の人です。1948年にロンドンオリンピックがありましたが、日本は1945年に敗戦して出場の資格がなかったんです。日本は同じ日に1500と400メートルの日本選手権をやるのです。圧倒的な世界新記録を作りました。出れば完全に金メダルでした。4年後のヘルシンキに出るんですが、8位でした。下り坂になっていたから仕方がありません。幻の金メダルとなりました。この人はその後、日本水連の会長になります。そして日本オリンピック委員会の会長になります。2009年ローマで客死する。古橋の努力が今回のロンドンオリンピックでで花開いたということになります。
たった1人の人物が後世に与える影響は非常に大きいのです。人の偉さは人に与える影響力の大きさであるということがおわかりでしょう。嘉納治五郎も偉いし、古橋広之進も偉い。このように私は思っています。
関東大震災のときに偉人たちは何歳だったか>
 もうひとつ最近あった事件は何かというと、3.11の大震災ですね。大震災のことを考えるときに、必ず関東大震災と比べることになります。関東大震災はマグネチュードはたいしたことはなかった。あれは相模湾で起こったのですね。東京ではないんです。一番被害が大きかった横浜は壊滅しました。東京はほとんど火災でした。10万人が死にました。今回の3・11は死者・行方不明者で2万人です。地震の大きさにくらべたら死者は少なかった。ほとんど水害でした。水死者が92.5%。60歳以上が65%です。関東大震災、日本は日露戦争後、昂揚期にありましたが、この大正23年から下り坂に向かいます。日本の高度成長にとどめを刺しました。そのときに誰が何歳だったかを調べました。渋沢栄一83歳。この人は東京で震災に出会いますが、埼玉に帰れと皆から言われます。だが彼は拒否するんです。こういう時こそ年寄が頑張らねばならない。いささかなりとも働くべきであると言い、後藤新平の要請で民間組織を作って救済復興を行います。後藤新平は66歳、自分がつくった東京の改造計画ができていました。ですから復興院総裁になって東京の青写真を部を書いてしまうんです。彼は道路と公園は残るといいました。日本には何度も地震がおきる。それで公園を全部整備しなおした。現在東京の大公園は全部後藤新平がつくりました。道路は環1,環2,環3は後藤新平の案です。隅田川に橋がかかっていますね。あれは隅田川を橋の博物館にする計画でした。隅田川を下って行くと様々な橋があります。あれは博物館なのです。
 徳富蘇峰は60歳でした。彼は55歳から日本の歴史を書き始めました。89歳で完成しますが、逗子で津波にあいながら書いていました。
原三溪は横浜の三溪園をつくった人ですが、この人は55歳で震災に遭います。横浜は壊滅します。市民が集まった復興の第一回会議で、「しかしながらこれは横浜の外形がこわれたのでありまして横浜の本体は厳然と存在しています、横浜市の本体は市民の精神であります。市民の元気であります。とくにここにおられる200名の諸君が健在である限り、横浜は大丈夫です。」と会長として演説をする。それで横浜は復興に動くわけです。リーダーの在り方を示しています。柳田国男は48歳ですが、農商務省関東大震災をきっかけにやめます。やるべきことをやらねばならないといって民俗学に入っていきます。与謝野晶子は当時45歳でした。このとき源氏物語の現代語訳をやっていました。完成まじかの4000枚書いたときに震災に遭い、原稿をすべて焼失してしまいます。「14年、われがかきためし草稿の跡あるべきや学院の灰」と詠んでいます。彼女は気を取り直してまた書き始めます。そして60歳で完成させます。それが今の与謝野源氏です。武者小路実篤は38歳でした。これで168号まで続いた「白樺」が中止になります。吉川英治は31歳、勤めていた新聞社の家屋が焼失、倒産、それで作家になります。大河内伝次郎は、丹下佐膳で私の記憶に残っていますが、会社が倒産して、宗教書を読みふける。そして、俳優になる。俳優は金がもうかるからです。フイルムは消えるが庭は消えない、と言って、彼は34歳から64歳までかせいだ全財産を庭造りに傾けて死にます。それが京都の大河内山荘です。傑作は日本画家の堀文子。90代でまだ健在です。この人は1918年生まれで関東大震災を覚えています。母もみな我を失っていた。年取ったばあやだけが冷静だった。ばあやが総大将になって冷静に大震災を乗り切った。なぜその婆やは冷静で沈着だったか。この人は安政の大地震の経験があったからでした。すごいでしょ。安政の大地震は1855年です。マグニチュード6.9、その32時間後に南海地震が起きています、マグニチュード8.4。そして翌年安政江戸大地震です。つまりこの3つの地震は連動している可能性がある。そのばあやが、安政の大地震を知っていました。長生きをするということはこういうことです。この世は無常だ。一切なくなってしまうという人生観で自然を描き続けている。
 本物の日本人になるにはどういう条件があるか、仰ぐ師匠がいるとか切磋琢磨する相手がいるとか、構想力がすばらしいとか、怒濤に仕事とか、いろいろありますが、そういうことを考えたり、その人が残したものを調べる。現地でしかわからないことがたくさんあります。そういうことをメモしてきてその格言もいろいろな場面に使ったり、本にも使っています。団塊の世代以降の人達のはグルメとか温泉などに行っていないで、大いに旅をしよう。その旅は人物記念館の旅だ。これを強調したいと思います。もう1つ、全国の記念館を回って思ったことは、どこも結構ガラガラです。今の日本の問題は何かというと、生き方のモデルがない。尊敬すべきモデルがいない。今の世代の人はみんなボロが出ますでしょ。ちょうど近代の、死んでしまった偉人がいいんです。二宮尊徳などもそうなのです。ものすごく偉い人です。記念館が残っている人は相当な人ですが、それ以外にも地域にもたくさん偉い人がいます。子供たちに地域の偉い人を尊敬させることは重要です。
<偉人伝の復活で、日本の精神をたたきなおす>
 偉人伝の復活、これが日本の精神をたたき直す一番の根本のところにあります。地域興しでもあります。人による地域おこしです。どんな人がいたか。たとえば行政改革で言うと、宮城県には、わらじ村長として有名な鎌田三之助という人がいた。この人は町長になったとたんに町長室を上がりかまちにした。そういうモデルがあるので、アメリカやヨーロッパのまねをする必要は一切ありません。自分たちの先祖にそういう人がたくさんいます。そういう人達をもっと掘り起こさねばならないという感じを持ちました。学生に対しては、こういう授業をやって好評を得ています。学生のアンケートをホームページに公表していますが、ものすごい影響です。今年は新しいことに挑戦してみました。ユーチューブを使いました。ユーチューブをつかっていろんな偉人の映像を見せました。今日見せたのは北原照久水木しげるの映像を見せました。正岡子規の時は「坂の上の雲」の映像です。これで秋山真之なんかも出てきます。あるいは阿久悠をやると秋元康が出てくるんです。秋元康という作詞家が尊敬するのは阿久悠なんです。阿久悠をやるとAKB48が出てくるので授業が面白くなる。司馬遼太郎の姿、岡本太郎の肉声、寺山修司をやろうとするとタモリが出てきて寺山修司のまねをする映像がある。ズーズー弁を使う。マンガ家。現在は教材としてこの新しい時代の新しいメディアが使えますし、これは非常にリアリティーがあって、いいので、これを使い始めたら去年よりも反応が抜群にいい。昨年までは私がずっとしゃべっていたんです。ところが映像と画像と組み合わせると学生が興味を持ちます。私が紹介した人以外でもいいから、自分のモデルを見つけなさい。今、それぞれがモデルを見つけていますが、たとえば宮崎駿にするとか、森鴎外にする。サッカー選手にするとか言っています。そうしてからその人達の人生を図解してもらう。それに文章をかいてもらってレポートにします。ですから私の手元には、毎年100人から200人の偉人の図がどんどん集まっています。これを使ってまた何か仕事やろうかと思っています。なぜこういうことを続けられるかというと、1つが図解コミュニケーション、1つが人物論、立志伝です。この2つを同時にやっているために、やり続けないと授業が成り立たないというしくみになっているのです。

(4月27日生まれの偉人)
◆宮部 金吾(みやべ きんご、万延元年閏3月7日(1860年4月27日) - 1951年(昭和26年)3月16日)は、日本の植物学者。北海道札幌市名誉市民。札幌農学校第二期卒業生(現在の北海道大学)。
◆宇都宮 太郎(うつのみや たろう、文久元年3月18日(1861年4月27日) - 1922年(大正11年)2月15日)は日本陸軍の軍人である。イギリス公使館付武官、参謀本部第二部長、第7師団長、第4師団長、三一独立運動時の朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将、勲一等功三級。桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。最近15年分の日記を遺族が公開し、2007年4月から11月にかけて出版された。いわゆる「佐賀の左肩党」の盟主で、荒木貞夫・真崎甚三郎の庇護者でもあった。子息にミノファーゲン社長・衆議院議員宇都宮徳馬

<本の紹介>
日本のたくみ (新潮文庫)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101379017/hatena-ud-22/ref=nosim
柔道を創った男たち―嘉納治五郎講道館の青春http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163445609/hatena-ud-22/ref=nosim
渋沢栄一――社会企業家の先駆者 (岩波新書)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004313198/hatena-ud-22/ref=nosim
現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480065350/hatena-ud-22/ref=nosim
<自分の心を耕し、成長をさせること>→現代語訳 論語と算盤から
 あるとき、Twitterで知り合いのこんなつぶやきをみかけました。寛容たれ。気持ちがぴりぴりするとき、自分に言い聞かせる言葉。ふかふかした柔らかい心は、人間関係における緩衝材。真綿のようにふわふわなイメージを思い浮かべて、深呼吸ひとつ。すーはー。
 仕事の人間関係で何かあったのかな?と思って頑張れって気持ちを込めて「それ、いいね!」って返信したらこう返事がありました。場当たりで感情を爆発させるより、自分の心のありようを変えるほうが長い目でみてストレスを軽減できますしね。ものごとをゆったり受け止められる余裕を身につけたいです…日々、心のトレーニング。なかなか簡単ではないので、時間をかけて取り組む課題ですけど。これは素晴らしい!と思いました。ちょうど渋沢栄一の「論語と算盤」の現代語訳版を読み終えたばかりだったこともあり、凄く共感しました。本で印象に載った一文、「自分を磨くとは、自分の心を耕し、成長をさせること。自分の理想に近づけるように少しずつ努力すること」まさしく、これとシンクロしたのです。そのつぶやきは、これを実践しているといえる。僕もこれを見習って、心を磨いて胆力をつけなければ!日々、精進を心がけるようになりました。
嘉納治五郎 [新装世界の伝記]http://d.hatena.ne.jp/asin/4324043868
渋沢栄一 日本を創った実業人 (講談社プラスアルファ文庫)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062812355/hatena-ud-22/ref=nosim
「図で考える技術が身につくトレーニング30」(自由国民社http://www.amazon.co.jp/dp/442660382X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1336908459&sr=8-1
吉村昭「冬の鷹」(新潮新書)--前野良沢杉田玄白 http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20130422
http://www.amazon.co.jp/%E5%86%AC%E3%81%AE%E9%B7%B9-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E6%9D%91-%E6%98%AD/dp/4101117055

<情報>
障害がある方の就労支援センター http://www.wingle.jp/lp/lp12006.html