第一四半期の最後を飾る6月である。そして、「“最弱チーム”は変われるか〜桑田と東大野球部〜」

 昨年のブログを読み返すと、消費税導入に反対の意見が今月の記事の中にあった。今でもその気持ちは変わらない。アベノミクスで株価が上昇しても実体実体経済は変わらず、雇用が増え、給料が上がらなければ、消費は増えない。まして、川下デフレの中で消費税をあげたら、更に消費は冷え込む。駆け込み需要もあまりないかもしれない。

 そして今年の今日。研修教材、講演資料等の作成に追われる。ただ、モチベーションをいかに高めるのかが大きな課題である。どうすれば集中できるのか。感情の起伏をどう抑制するのか。今の自分にある大きな課題である。この課題が解決しなければ、というより、追い込まれながら努力する自分がなければどうしようもない。

◆「“最弱チーム”は変われるか〜桑田と東大野球部〜」(2013年6月3日放送 19:30 - 19:56 NHK総合 クローズアップ現代
 桑田さんの東大野球部改革に密着した。56連敗中の東京大学野球部のチームの建て直しのために元巨人の桑田真澄さんが特別コーチに就任した。体格に恵まれなかった桑田さんは高校時代から独自の練習方法を追求してきた結果、プロ通算173勝をあげた。桑田さんは東大野球部に対して短期間集中型で超効率的な練習をしないといけないとアドバイス東京大学の野球部は6大学野球では15年連続最下位でワースト記録を更新し続けている。東大の野球部員は全員入試を突破した無名の選手ばかりだ。逆境を前に落ち込む選手たちの特別ピッチングコーチとして今年の1月から巨人の元エース桑田真澄さんが就任。体格に恵まれなかった桑田さんは、高校時代から考える野球を独自に追求してきた。桑田さんは部員たちに対して、なぜ心が弱いのかを問いかけ、常識を疑うことを促した。東京大学野球部の特別コーチの桑田真澄さんがまず注目したのは練習時間の長さだった。4年生の井坂肇投手は練習量イコール上達だと捉えていた。そんな部員に対して桑田さんは練習をやり過ぎると内容が薄くなっていくとアドバイスした。
 次に桑田さんが注目したのはピッチングの練習法だった。カーブやスライダーなど変化球を覚える努力をしてきた東大野球部の部員に対して、外角低めのストレートだけ練習することを伝えた。練習量を減らし、急所をしぼるという東大の常識とは逆の指導法には桑田さんが野球人生で培ってきた経験があった。高校生時代、桑田さんは小柄というハンデを克服しようと猛練習した。しかし、疲労がたまりかえって練習ができなくなったという。そこで桑田さんは監督に進言し、あえてボールを投げない日を独自に設けた。プロに入り、巨人時代はコントロールをみがいた。決め球はアウトローとし、これを徹底して強化することで9回を代表するピッチャーとなった。体力で劣る東大の選手たちにかつての自分を重ね合わせていた桑田さん。自信を持てる武器をまずひとつ持つことを提案したのだ。アウトロー1本にしぼった練習は試合で通用するコントロールを身につけるため、10球中8球決めることを目標とした。
 この練習に苦労している選手がいた。2年生の白砂謙介投手だ。スピード不足を様々な変化球で補おうとしてきたが、どのボールもコントロールが定まらないでいた。桑田さんはアウトローを磨くことで実践に活かせるボールを作ってほしいと指導を続けた。リーグ戦が始まった。開幕戦は法政大学とだ。先発を託されたのは白砂投手。しかし、力が入りストライクが入らず、キャッチャーがアウトローに構でも決めることができない。結局この試合は10対1で連敗を更新するかたちとなった。技術の急激な進歩は臨めないと桑田さんも予想していたが、50連敗となった試合で桑田さんは危機感を募らせた。失点を重ねても、一向に闘志を見せないピッチャーたちや悔しがらない打撃陣。この日、早稲田大学との試合で1人のランナーも出さない完全試合で敗北を喫した
 この試合の後、グラウンドにやってきた桑田さんはこれまでにない厳しい言葉を投げかけた。白砂投手は桑田さんの問いかけに自らを見つめなおしていた。技術だけではなく、自分に足りないものを見つけ出そうと試合の映像を見返した。ある日、桑田さんは自らマウンドに立ち、アウトローを50球以上投げ続けた。桑田さんの投球を一際熱心に見つめる投手がいた。4年生の浅井俊一郎投手だ。これまでは桑田さんに声をかけるのを遠慮していたが、この日を境にアドバイスを求めるようになった。浅井投手はどうすればコントロールを磨くことが出来るのか相談。桑田さんは力みすぎていると指摘し、上半身のちからを抜いて投げることを伝えた。指導から1週間。この日、浅井投手はアウトローを10球から7球決めることが出来た。桑田さんは意識がある選手は伸びるとつぶやいた。開幕から勝ちがないまま迎えた第8戦では明治大学と対戦。白砂投手は4回からマウンドを任された。桑田さんに指摘された気持ちの弱さをこの日は見せず、アウトローを軸に強打者を抑えていったが、2対0で惜しくも敗れた。しかし、白砂投手は秋の1勝に向けて走り始めている。
 スタジオに桑田真澄さんが登場。半年間、東京大学の野球部でコーチをしてきて見つけた部員の一番の弱点を真面目すぎて練習をやり過ぎている部分だと述べ、質の高い内容のある練習をすることがポイントだと話した。また、野球は体力と技術だけが勝負なのではなく、頭で考えることも必要だと述べ、3つのバランスをとることが大事だとした。桑田さんは投げる球数を制限する指導について、何球集中して投げ切ったかが重要であるとし、1球1球考えて投げることの必要性を述べた。桑田さんの考える野球が当たり前となっていないことについて、野球界の伝統はなかなか変え切ることができないからだと話した。また、日本の野球は管理野球だとし、指導者の指示に従ってやる野球は日本の野球界の弱点でもあると述べた。そして野球選手に必要な要素として、自分で考えて行動できることだとした。桑田さんは一人ひとりが自信を持てるようになるためには、自分で自分を信じてあげることのできる練習をすることだと述べた。小さな成功体験を積み重ねていくことが自信につながり、重要だとした。

◆「“日本の緑茶”が世界へ最強の輸出品になるか!?」(2013年6月3日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京 日経スペシャル 未来世紀ジパング 〜沸騰現場の経済学〜 )
 アベノミクス効果は消費にどのような影響を及ぼしているのかを、銀座のデパートで調査。松坂屋では美術・宝飾・貴金属の4月の売上げが前年同期比で34.4%増加。銀座三越にあるデセール・テというコーナーではQueen of Blue deluxeというJALのファストクラスで出されている高級緑茶が販売。価格は2万1000円だが予約して何度も購入する人も多いと、ロイヤルブルーティージャパンの吉本社長は語った。
 全国有数のお茶所静岡県浜松市では、天竜茶の収穫が開始。このような緑茶は、日本だけでなく海外にも輸出され、健康ブームのアメリカやドイツでも人気に。スタジオにはボトル1本で2万1000円の高級緑茶「King of Green MASA Premium」が登場し試飲が行なわれた。「旨みが凄い」「変わらないといおうと思っていたが、全然違う」などの感想。そんな緑茶に注目する今日の沸騰ナビゲーターは、日本経済新聞社の田中陽氏。田中氏は、お茶が世界的に注目を集めている状況を、アメリカの大手飲料メーカー本社に、日本法人でお茶のマーケティングをやっていた幹部が抜擢された事などを例に説明。
 肥満が問題となっているアメリカ。そんなニューヨークで話題となっているカフェを、今年4月からニューヨーク支局に赴任した大江アナが訪れる。肥満が問題となっているアメリカ。そんなニューヨークで話題となっているカフェ「ボイジーティー・パーラー」を取材。こちらは低カロリーの食事と、体に優しい食べ物で人気のお店で日本の緑茶も人気。このように、ニューヨークでは日本のお茶を楽しめる緑茶カフェが急増している。サンフランシスコで営業を行なう伊藤園の営業担当者に密着。シリコンバレーで集中的に営業を行なっており、ペットボトルに入った「お〜い お茶」を積極的に売り込んでいた。IT関連者を中心に売込みを行なうのは、SNSを使った宣伝効果を狙ってのものだった。
 アプリ開発で急成長をとげるエバーノートという企業では、社員食堂でも「お〜い お茶」を販売。アメリカに進出を果たしてから5年で、シリコンバレーには着実に「お〜い お茶」が浸透していた。ニューヨークで「お〜いお茶」の売込みを行なう、伊藤園の営業担当者に密着。このエリアには数多くの小売店があり競争が激しいが、売り場には無糖の緑茶ははずか。棚にはコカコーラグループの砂糖やフレーバーを加えた緑茶飲料も多く、その中に「お〜いお茶」は埋もれて置かれている形だった。ニューヨークで「お〜いお茶」の売込みを行なう、伊藤園の営業担当者に密着。営業担当者はお店の人と交渉し、自社製品を自ら陳列。より目立つ場所に「お〜いお茶」を置く事に成功した。
 伊藤園アメリカでの営業の様子をスタジオで振り返る。営業担当者はお店の人と話して自ら他社製品を自社製品に陳列しなおしていたが、これはルートセールスと呼ばれる手法。このルートセールスは最初コカ・コーラが本格的に導入したもの。ちなみに、緑茶は無糖か加糖か?の調査では、日本は圧倒的に無糖派だったが、アメリカでは半々の情勢。しかしアメリカでも健康志向は高まっており、ここに日本企業の商機がある。
 国内2位の茶葉生産量を誇る鹿児島を取材。市場では荒茶と呼ばれる、生葉を蒸してもみ、乾燥させたもののセリが行なわれていたが、市場関係者は茶葉の価格は下落し30数年前と同じくらいのレベルまで落ちていると証言。そんな危機を打開しようと乗り出したのが「下堂園」というメーカー。このメーカーは鹿児島県産茶の品質改良を長年行なっており、北海道洞爺湖サミットにもそのお茶が振舞われた。現在下堂園は日本茶を海外に売り込む新しい展開に打って出ている。
 ドイツでの日本茶の様子を取材。ドイツといえばビールの大量消費国だが、カフェでは日本の緑茶が人気で、ドイツの日本からの茶葉輸入量は欧州最多となっている。ベルリン市内のお茶専門店「P&T」では日本茶セミナーなども開催、さらにお茶専門店「Tee Tea The」では日本茶の専門コーナーも設置。ここで人気だった「KEIKO」というお茶は下堂園が製造したお茶だった。ドイツ・ブレーメン郊外にある日本の下堂園が製造する日本茶「KEIKO」の卸を行なっている会社を取材。この会社は日本庭園があるなど和にこだわった会社だった。KEIKOは鹿児島本社から直輸入しているため、他の緑茶に比べやすくなっており、パッケージも目立つようにデザインを工夫していた。卸をしているマルクス氏は、ドイツ人が経営する初の日本茶専門店へと赴き、KEIKOブランドの抹茶を売り込むため、抹茶のたてかたをレクチャー。店主はその抹茶を街行く人に振舞ったが、評価は上々だった。アメリカはシリコンバレーで緑茶だったが、ドイツだとまた異なる層が飲んでいる事などが話題に。竹田圭吾は、様式など禅と同じような日本の精神文化に触れているという消費の仕方をしており、裏を返せば味の魅力は伝わっていないのではないか?と指摘した。
 緑茶に対する田中陽の未来予測は「Japanese Green Teaを世界遺産に」というもの。現在和食を世界遺産にという動きがあるが、料理ではフランス料理やメキシコ料理は既に世界無形遺産として指定。緑茶は輸出品としても可能性も高い。100年前には日本の緑茶は輸出産品として生糸に続く第2位の品目だった。戦後品目が変わり順位は変化しているものの、輸出量は20年で10倍に増加しており、TPPに絡んで出てきた農作物の輸出重点品目の中にも緑茶は含まれている。


(6月3日生まれの偉人)
◆石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年明治19年)6月3日 - 1975年(昭和50年)3月6日)は、日本の財界人、経営者。第一生命保険東京芝浦電気(現東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日〜1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は、石坂泰三を嚆矢とする。1914年(大正3年)高等官に昇進し、為替貯金局事務官補となる。岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社の矢野恒太社長に紹介されたのが機縁となり、1915年(大正4年逓信省を退官し、第一生命に入社し、矢野社長の秘書となる。1916年(大正5年)生命保険事業視察のため欧米諸国を歴訪、翌年9月に帰国する。1938年(昭和13年)第一生命取締役社長に就任する。この年の秋に丸の内に後にGHQの本部ビルとなった、第一生命本社ビルが完成している。1947年(昭和22年)に辞任するまで、第一生命は中堅から大規模生命保険会社に成長した。なお、GHQが本社ビルを接収した際には、石坂の社長の椅子にはダグラス・マッカーサーが座ることとなった。
 戦後、吉田茂から大蔵大臣就任を打診されたが拒否している。三井銀行頭取の佐藤喜一郎東京芝浦電気社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。東芝は当時、大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった。あえて火中の栗を拾った形となった石坂は、真正面から組合と交渉し、6,000人を人員整理し、東芝再建に成功する。
 官僚出身の割に官僚の民間経済への介入を嫌ったが、東芝再建に官や他勢力の力を借りずに成し遂げたことで、1956年(昭和31年)に石川一郎経済団体連合会経団連)会長辞任を受けて、後任の経団連会長、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任する。1957年(昭和32年石川島播磨重工業相談役、東京芝浦電気会長に就任する。自由主義経済の原則のもと、官僚の干渉を排除する姿勢や指導力に高い評価を受ける。政治への発言、行動も躊躇せず、1956年(昭和31年)には日本商工会議所会頭の藤山愛一郎と共に鳩山一郎首相に対し退陣を求めた。1960年(昭和35年)の60年安保闘争では、安保改定阻止国民会議を中心とする反対運動の盛り上がりによって、アイゼンハワーアメリカ大統領の訪日が中止されるという緊迫した状況を受けて、経団連など経済四団体が「時局に対する共同声明」を発している。安保反対の先頭に立った、浅沼稲次郎暗殺事件に際して「暴力行為は決していいものではない。だがインテリジェンスのない右翼の青年がかねて安保闘争などで淺沼氏の行為を苦々しいと思っていて、あのような事件を起こした気持もわからないではない。」と実行犯に同情的な発言をしたため問題視された。
 1957年(昭和32年)にアラビア石油会長に就任。1960年(昭和35年)、東京オリンピック資金財団会長に就任。1963年(昭和38年)日本工業倶楽部理事長に就任。1964年(昭和39年)、日本は経済協力開発機構(OECD) に加入。それにともない、産業経済諮問委員会(BIAC)にも加入し、石坂はBIAC日本委員長となり、積極的に資本の自由化に取り組んだ。同じ年、小泉信三の後を受けて、1975年(昭和50年)まで宮内庁参与に就任。また、ボーイスカウト日本連盟総裁となる。1965年(昭和40年)昭和天皇の御前で講義を行う。11月に三木武夫通産大臣の要請で、人選が難航していた日本万国博覧会協会会長を引き受け、1970年(昭和45年)3月の日本万国博開催に漕ぎ着けた。
◆前田 真三(まえだ しんぞう、1922年6月3日 - 1998年11月21日)は、日本の風景写真家である。上高地や奥三河など、日本各地の風景を撮影するが、中でも北海道上川郡美瑛町を中心にした丘の風景の作品で知られ、同町に自身の作品を展示する写真ギャラリー「拓真館(たくしんかん)」を設立した。
 四年前多摩にある前田真三ギャラリーを訪ねる。出征後、26歳、日綿実業に入社し16年間勤務。45歳から写真活動に入る。日本列島縦断撮影3か月など。58歳、朝日広告賞受賞。63歳、毎日出版文化賞特別賞。
 北海道美瑛に1987年にオープンした「拓真館」にはライフワークとしてきた「丘」の連作を常設している。2007年には開館20周年を迎えている。「無理をせずに、できることを積み重ねて行こう」という精神でやっていたそうだ。前田真三は、美瑛の風景の素晴らしさに心を打たれたのだろう。青い杉林。ハナモクレン清楚。光る柿。西海落日。菜の花の段々畑。山並遥か。白い滝。まるで絵のような写真であり、「前田真三ならではの絵画的写真表現」であった。
◆北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年(明治33年)6月3日 - 1990年(平成2年)4月12日[1])は日本の詩人であり、映画評論家としても活躍した。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120603/p1