「値上げの夏!低価格をどう実現するか?」 再び「舞妓の言葉――京都花街、人育ての極意」から

◆「値上げの夏!低価格をどう実現するか?」(2013年7月2日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京 ガイアの夜明けより)
川崎市の住宅街に「業務スーパー 南加瀬店」がある。ここでは、ポテトサラダなど主に業務用の食品を扱っている。業務用だけではなく、一般家庭用のものも取り扱っており、安さから8割は一般家庭の客が利用している。兵庫・稲美町業務スーパーを運営する神戸物産がある。好調な売り上げだが、最近になって仕入先から値上げの要請が相次いでいる。仕入先からの値上げの通知書には、急激な円安や為替の影響などが原因だと書かれていた。そのきっかけは、アベノミクスだと説明した。大手の日清オイリオやキューピーなどが値上げに踏み切っている。
 これから食品がどんどん値上げをすると言われている。マヨネーズやツナ缶などは値上げを決めている。今、食品を中心に値上げが始まっている。今回は、独自の取り組みで低価格を維持しようとする小売会社を特集した。業務スーパーでは、原材料が高騰するなか値上げをせずに踏みとどまっている。食品業界大手が値上げを決めるなか、PB商品のGSマヨネーズなどは値上げをしていない。業務スーパーでは全体の3割をPB商品が占めている。北海道・むかわ町には、神戸物産の巨大な自社農場がある。ここで作った大豆は、兵庫・姫路市の自社工場に運ばれる。マージンをカットするほか、隣ではマンゴープリンを作っていた。同じような機械を改良して別の製品を作ることで生産性を高めている。自社工場は、滋賀・竜王町など全国各地にある。原料価格の高騰に対応するために、新たなPB商品を作ろうとしていた。別の工場がアイスの製造のために使っていた機械でドレッシングを作っていた。神戸物産では、全国19ヶ所の自社工場と一次産業にも進出している。神戸物産は、生産から加工、販売までを自社で賄うシステムを強化している。
 神戸物産は、沼田博和社長が率いている。 しかし、沼田社長は原材料価格をみると為替レートによる納価変更の文字が連なっている。特に円安による小麦の値上げで「天然酵母食パン」の値段維持が難しくなってきた。神戸物産業務スーパーは、PB商品で安さを維持している。しかし、小麦の輸入価格の高騰によって天然酵母食パンが値上げの危機に直面していた。神戸物産の浅見一夫さんは価格維持のために、埼玉・吉見町の自社工場を訪れた。浅見さんは、オーブンで焼く工程で、パンの列の間隔を縮めて生産量を増やせないかと考えた。さっそく間隔を短くして焼きあげてみたが、焼きが甘く商品にならなかった。温度設定を変更して、割ってみるとしっかりと焼き上げることが出来た。この日から生産量を1.5倍にすることができた。川崎市業務スーパー 南加瀬店では、天然酵母食パンをこれまでの値段通りに維持することが出来た。神戸物産は、大手食品メーカーが値上げをするなか、これをチャンスと捉えて商品を増やし、売り上げも1.5倍に増加させることが出来た。その頃、浅見さんは兵庫・姫路市で買収した製麺工場を訪れていた。神戸物産では7月中旬にも自社で生麺の製造を行おうとしていた。
 100円ショップは景気に影響されずに同じ値段を守り続けている。キャンドゥ 西武新宿ペペ店で人気なのはアイディア商品。電子レンジでスパゲッティを茹でる容器は火を使わずに簡単に調理できる。「便利な洗剤ブラシ」も人気。しかし100円ショップ大手4社の売上高はここ数年伸び悩んでいる。キャンドゥ 新百合ヶ丘オーパ店を訪問。商品部の廣田淳子さんによると棚を低くし通路幅をとることでベビーカーでも店内を見やすいようにした。レジはバーカウンター式。月に約500アイテムの新商品を出している。東京・新宿にキャンドゥ本社がある。商品部では月に500の新商品を開発。廣田淳子さんは1年で1000を超える商品を担当。キャンドゥの商品は食品を除いて1年間の保証付。カラフルなキッチン用品やマッサージ器具も100円。東京ビッグサイトで開催されていたインテリアライフスタイルという見本市を見学。展示会や雑貨店に足を運びデザインや色を学ぶ。常にアンテナをはることが新しい商品を生むきっかけになる。キャンドゥ本社の会議室に城戸一弥社長がやってきた。会議室のテーブルには発売予定の新商品が並べられていた。社長のOKが出ないと店頭に出すことはできない。城戸一弥社長は模様付きのビニール傘のプリント代5円が高いと指摘。キャンドゥはプラスチック製品が多いため原油高騰の影響が大きい。100円でいかに良い物を作るかが会社の生命線のため、城戸社長は商品部に発破をかけた。廣田さんは夏向けの新商品作りに取り掛かっていた。防水巾着バッグを商品化したいと考えていた。課題は防水加工のコスト。コスト管理や業者との交渉も廣田さんの仕事。防水加工に使う塩化ビニール樹脂は石油と塩素が主原料のため年々コストが上がっている。円安で輸入コストも高くなっている。100円ショップ大手のキャンドゥでは、月に500の新商品を投入している。廣田淳子さんは夏向けの商品開発を行なっていた。廣田さんは、防水巾着バッグを考案していたが、原材料費高騰や円安で想定よりコストがかかってしまうと悩んでいた。どうすれば100円で商品化できるのか考えた廣田さんは、商品が保管されている倉庫に向かった。既存の販売しているショッピングバックの生地を利用することでコストダウンが出来るという。廣田さんは、サンプル生地のチェックをしたが防水加工が剥がれやすいと、業者にやり直してもらうことにした。キャンドゥの商品開発を担当する廣田淳子さんは、夏の目玉商品の防水巾着バッグのサンプル品チェックをしていた。防水加工を強化することで、加工がはがれるという問題が解決していた。この改良のコストアップは、マチを取ることで縫製を少なくするなどのコストダウンを積み重ねて解決した。さらに廣田さんは、防水がきちんと出来ていているか商品の性能を確かめていった。発売予定の新商品が並ぶデスクのセンターには「防水巾着バッグ」が置かれていた。城戸一弥社長に商品の説明を行った。社長は、100円という価格のなかで相当こだわって作っていると話した。このバッグは7月中旬に発売される予定になっている。城戸社長は、100円を守る企業努力をこれからも行うと話した。 
 →→ 今、商品の値下げが当たり前のようになってきたが、今後は低価格を維持するためにこれまで以上の努力が必要だであり、起業が取り組んでいる姿をみた。でも、これで起業が生き延びていけるのであろうか。人口減少国の日本で。


◆「舞妓の言葉――京都花街、人育ての極意」(西尾久美子著)から。
 京都の花街。まさに、そこは、350年の伝統が育んだ、キャリアを支える「励み、癒し、気づき」の言葉がある。京都女子大学の西尾久美子教授は経営学、そして人材教育、キャリア形成という学術的な観点から、京都花街の舞妓・芸妓社会のシステムを解明し、その真髄を表す「言葉」をピックアップし、心に響く書にまとめられた。
 ・まだ舞妓になる前、仕込さんのころの右も左もわからいないときのコミュニケーション方法を指示する言葉、それは、「電信棒見ても、おたのもおうします。」
 ・見習いさんのころに置屋のお母さんがかける言葉、それは、「かわいがってもらいよしや」
 ・出たての舞妓さんの周りへの指導に対する感謝の気持ちを示す言葉、それは、「言うてくれはる、見ててくれはる」
 ・お紅をさしたころの心構えを表す言葉、それは、「そのままほっとくのが恥かしいことや」
 ・髷替えのころ後輩の指導に当たり始めた時の姿勢を示す言葉、それは、「姉さんが言わはる前に、うちが気ぃつかんと」
 ・舞妓の社長になったころの決意の言葉、それは、「一歩上がると、見えへんことがわかるようになるんどす」
 ・舞妓から芸妓へとなる衿替えの心境を表す言葉、それは、「一生、一人前にはなれへんのどす」
 舞妓さんに綴られる京ことば。周囲に育てられ精進していく舞妓さんの言葉はなるほどと思うところ多数。『「が=我」を張ることは、私一人の頑張りだが、「気」を張るなら、自分の気持ちのアンテナをしっかり伸ばし、周囲との関係性を配慮しつつ努力しようということになる。』心に残った一文。意外にも人材教育に役立つ本でした。「いつの時代も若者は、未経験で、未熟で、自信もない。350年続く伝統産業である「京都花街」が、現代の10代半ばの少女たちを舞妓さんというプロフェッショナルに育成できる秘密は、伝統文化や人材育成の仕組みとともに、自分の経験や周囲の関係性を大切にしながら自律的なキャリア形成をうながす、「言葉の力」にあるのではないか。まさに、この本から、15歳から故郷を離れ、京都の花街で、わずか5年余りでプロフェッショナルになる彼女らの秘密ともいえる、言葉の力を垣間見ることができる。、まさに『「が=我」を張ることは、私一人の頑張りだが、「気」を張るなら、自分の気持ちのアンテナをしっかり伸ばし、周囲との関係性を配慮しつつ努力しよう』ということになろう。

(7月2日生まれの偉人)
◆石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年(明治38年)7月2日 - 1985年(昭和60年)1月31日)は、日本の小説家。早稲田大学英文科在学中『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選。 12人兄弟の3男で学資が続かず退学。国民時論社に入社し (1926) ,作品を各社に持込んだが採用されず,1930年同社の退職金でブラジルへ渡航,半年後帰国復職して同年『国民時論』に『最近南米往来記』を連載。
◆藤原 彰(ふじわら あきら、1922年7月2日 - 2003年2月26日)は、日本の歴史学者。日本近代史専攻。一橋大学名誉教授。1980年日本学術会議会員。元歴史学研究会委員長。
◆小原 秀雄(おばら ひでお、1927年7月2日 - )は、動物学者、女子栄養大学名誉教授。 東京生まれ。法政大学中退。国立科学博物館助手、女子栄養大学助教授、1969年教授。98年定年退任、名誉教授。 哺乳綱の研究で知られる。世界自然保護基金日本委員会常任理事など。82年世界野生生物基金(WWF‐I)から自然動物保護功労賞、88年国連環境計画(UNEP)からグローバル500賞、66年毎日出版文化賞、2003年『ゾウの歩んできた道』で産経児童出版文化賞受賞。
◆竹内 均(たけうち ひとし、1920年7月2日 - 2004年4月20日)は、日本の地球物理学者、東京大学名誉教授、理学博士、科学啓発家。科学雑誌『Newton』初代編集長。代々木ゼミナール札幌校元校長。寺田寅彦が残した「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉を胸に抱き、関東大震災以降、災害に、特に地震に無頓着であった日本国民に警鐘を鳴らし続けた。竹内の専門であるプレートテクトニクスに基づく科学的な地震学を広めようとしたが、十分に国民に浸透する前に彼が恐れていたことが現実となる。1995年に兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災が発生したのである。その結果、彼の目的は期せずして達せられたが、テレビなどマスコミにプレートテクトニクスを知らない「にわか地球物理学者」が登場し、誤った科学知識を広めたので、よりいっそう本の出版など、科学の啓発活動に力を入れた。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120702/p1

<本の紹介>
学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)http://d.hatena.ne.jp/asin/4480064702
・地球の中心で何が起こっているのか 地殻変動のダイナミズムと謎 (幻冬舎新書)http://d.hatena.ne.jp/asin/4344982274
・ローカル・メディアと都市文化―『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』から考える (叢書・現代社会のフロンティア)
       http://d.hatena.ne.jp/asin/4623059219
るるぶ谷中根津千駄木上野浅草 (るるぶ情報版―関東)http://d.hatena.ne.jp/asin/4533063535
・復興計画 - 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで (中公新書(1808)) http://d.hatena.ne.jp/asin/4121018087
千駄木漱石  http://d.hatena.ne.jp/asin/4480815147
  内容紹介ブログ「だうなあ日記~blog  2013/04/07」より抜粋
  森まゆみがどういう人なのか知らないけれど、なにか、郷土史家が自分の町の歴史を書くような調子で書いている。坪内祐三の『靖国』もそうだったと 思うのだけれど、つまり、東京というまぎれもなく他のどんな場所とも違う個性を持った場所との関係で、靖国にしても、漱石にしても、いままではそう いう風にはとらえられてこなかったことを、とらえ直そうという、ある意味ではもっともな気運とまでいわなくても、そういうひとたちが出てきても不思 議ではないのだろうと思う。
  それは、明治以来、歴史という名の固定観念が、ものを見る目を支配してきたのが、最近、ようやくはがれ落ち始めているということの、あるあらわれ と見てもいる。漱石が当時住んでいた家が、じつは、その前に住んでいたのは誰それで、その大家さんは誰で、その周囲にあった学校、車屋、銭湯はどう だったか、といったことを丹念にマッピングしていくことが『吾輩は猫である』を読む楽しみを増してくれるのはたしかなことで、それは偶然にも、この 前読んだ『ナボコフの文学講義』で、ナボコフが、グレゴールザムザの部屋の配置や、ジキル&ハイドの家と通りの見取り図を、正確に図解する態度と通 じている。これは誤解かも知れないけれど、20世紀の態度は、そうじゃなかった気がする。文学の専門家の人たちは、例えば、漱石なら漱石、藤村なら 藤村が、文学史のどの段階にいるのか、とか、文学の発展にどのように寄与しているのか、とか、寝ても覚めても、そんなことばっかりを気にしていたよ うな気がする。で、それは‘もういいよ’っていうのが、今の気分なのは確かみたい。
  たとえば、20世紀には‘本格小説’なんていう言葉があって、あれこれの小説を‘これは本格じゃない’とか、‘これは本格です’とか、そういう判 定をするのが文学の専門家の仕事だったみたい。その背景には、文学に限らず、発展的歴史観みたいのがあって、歴史の発展段階のいちばん先端を走って いるのが西洋で、日本はその後塵を拝しているけれど、ただし、東洋では一番先頭ですみたいな、西洋に対してはおもいっきり卑屈でありながら、アジア の他の国々に対しては、思いっきり勘違いみたいなコンプレックス状態にわたしたちの国はおかれていたみたい。
  で、これは何度か書いてきたけど、新井白石がシドッティという密行の伴天連と謁見したときには、キリスト教の教義を聞いて、失望している。ほとん ど哀れんでるといってもいい。ところが、明治になると、正宗白鳥なんかほとんど無批判にキリスト教の方が仏教より優れていると思い込んでる。不思議 だけど、ふりかえって今のわたしたちはどうかといえば、どちらとも比較にならないレベルながら、どちらかといえば、新井白石に近いのではないかと思 う。それは歴史という呪縛がとけたからだと思う。そうなると、夏目漱石を西洋文学とくらべてどうだこうだというよりも、『吾輩は猫である』が書かれ た当時の漱石とか、『道草』のモデルになった養父と漱石がすれ違った道とか、そういうことのほうが、小説を鑑賞する上で有意義だと人は思い始めてい る。そういう状況があって成立する本だな。『吾輩は猫である』の原稿が書き上がると、漱石は、訪ねてきた寺田寅彦なんかと朗読して笑っていたそう  だ。そういう話を聞くと、木曜会なんていう夏目漱石と弟子たちの集まりは、サロンというより、田中優子が書いていた、江戸時代の‘連’に似ているよ うにさえ思う。そういう仲間内の寄り合いみたいなところから、日本の近代小説の名作が生まれたと思うと何か楽しい。