今日は世界人口デーであるが、これからの日本はどうなるの?

◆今日は世界人口デー(World Population Day)
 国連人口基金(UNFPA)が1989年に制定。国際デーの一つ。1987年のこの日に、地球の人口が50億人をこえたことから、世界の人口問題への関心を深めてもらう為に制定された。国連は、この日にユーゴスラビア(当時)のザグレブで生まれた男の子を50億人目と認定し、デクエヤル事務総長がかけつけて祝福した。1999(平成11)年10月12日には60億人を突破し、毎年約7800万人のペースで増加している。
 しかし、日本は2005年をピークに人口減少社会を迎えている。まさに、日本は貧困国であり、高齢社会であり、ますます衰退の一途をたどる。これからの日本はどうなる。

◆これからあえて強要はしない。それが自分のため。それが俺のためであろう。職場とは距離をおきたい。今の自分の立場を守るために。あえて部屋にこもろう。あとは成り行きに任せよう。

◆落下流水(作詞:松本隆、作曲:林田健司
 落ちてく花の気持ちがわかる もがく重みさえも忘れ
 目をいっぱいに見開いて立ってた 力がぬけてゆく
 流れる水のように私を どこか遠く運んで
 ああ無言の恋歌 うれしい時も悲鳴上げる
 いま あなたを知ることが 生きている証
 孔雀みたいな満天の星 あなたの瞳に映る私
 
 息が触れると心を刺す棘が ひとつずつ消えてく
 生命の河の水にゆだねた 木の葉の舟みたいに
 ああ無言の恋歌 邪険な時を忘れさせて
 もう昨日までの私 反古にしてもいい
 ああ無言の恋歌 うれしい時も悲鳴上げる
 いま あなたを知ることが 生きている証

(7月11日生まれの偉人)
◆徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日(1628年7月11日)〜元禄13年12月6日(1701年1月14日))は、常陸国水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
 初代水戸藩主・徳川頼房の三男。寛永10年(1633年)のちに讃岐国高松藩主となる兄の頼重をこえて継嗣に決まり、寛文元年(1661年)二代水戸藩主となりました。
藩主に就任前の明暦3年(1657年)江戸駒込中屋敷に史局(のちの彰考館)を置き、「大日本史」の編纂に着手しました。元禄元年(1690年)家督を頼重の子供の綱条つなえだに譲った後、久慈郡新宿村(現:常陸太田市)に西山荘を建てて隠居しました。この間、幕府に先駆けて殉死を禁止し、藩士の規律・士風の高揚を図る一方、藩内の寺院整理を行い、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力を持ちました。名君の誉れ高く、のちに「水戸黄門漫遊記」が創作されました。
 「徳川光圀公像(茨城県水戸市千波湖)」の碑文には次のように書かれていた。
 「水戸黄門で知られる徳川光圀卿は今を遡ること三百数十年 寛永5年水戸城で柵町の家老三木之次の家で生まれた。父は徳川家康の第十一男水戸藩祖頼房 母は谷久子。5歳にして世子に挙げられ 34歳の時御三家水戸第二代藩主となり その職にあること30年。元禄3年兄高松藩主頼重の子綱條に跡を譲り 多年の念願を果たして引退した。翌年水戸の北太田の西山に隠栖して凡そ10年 元禄13年良き家臣に恵まれ73歳の波乱曲折の生涯を終った。生前の行實により義公と謚された。殉死の禁止 社寺改革 扶弱抑強の令等藩政上の治績のほか 世子時代に志した彰住考来の意に基づく大日本史の編纂では 史臣を全国各地に派遣して旧記古文書を収集するなど史料尊重の方針を貫いた。また下野国での古墳発掘や各地の史跡古碑等の保存に努めたことなど 文化財保護の上から今日その価値が再認識されるに至った。庶民に対する思い遣りの民政と大胆な文化行政によって 近世大名中異色の存在であった卿は太平無事の英雄と評された卿晩年の姿を模した此の像は多くの人々の浄財によって完成し湖畔はるかに生誕の地を望んでいる。
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月11日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、江戸時代末期に在位した第121代天皇。在位は1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日)。幼称は煕宮(ひろのみや)。諱は統仁(おさひと)。明治天皇の父に当たる。一世一元の制制定前の最後の天皇である。
◆藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月11日 - 1945年8月11日)は、日本の医師・教育者。日本留学時代の魯迅の恩師として知られる。1874年、敦賀坂井郡村(現福井県あわら市)で、代々続く医者の家に生まれた。父も適塾に学んだ医師であり、彼が橋本左内と交わした書簡が今に伝わる。愛知医学校(名古屋大学医学部の前身)卒業後、同学校の助手となり、のち助教授に昇格した。郷里に程近い第四高等学校医学部(後の旧制金沢医科大学、現在の金沢大学医学部)への転勤を希望するもかなわず、東京大学で解剖学の研究をしたのち、知人の紹介で仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に講師として赴任、1904年7月に解剖学講座の教授に昇格した。
 その年の9月、中国人留学生周樹人(魯迅)が入学。当時の日本では日清・日露戦争の戦勝気分の中で中国蔑視の風潮が強まっていたにもかかわらず、藤野は魯迅を親切に指導した(ちなみにこの師弟の年齢差はわずか7歳である)。しかし魯迅は医学では中国を救えぬとさとり、医学を捨てて仙台を去った。その頃の二人の関係は、魯迅の自伝的短編小説「藤野先生」(小説集『朝花夕拾』に収録)に詳しい1915年、仙台医専東北帝国大学医学部に改組されるにあたり、医学校卒の学歴では教授の資格に難ありとされたため辞職、郷里に戻り妻の生家のある三国町で開業医となった。
 1926年魯迅は「藤野先生」を発表、藤野の名が世に知られるようになった。魯迅は恩師が世に知られることで消息不明の彼と連絡が取れるようになることを期待していたようだが、結局藤野が自ら名乗り出ることはなかった。身内にも固く口止めしていたという。北京医科大学から教授として招請されたこともあったが、これも固辞した。

<昨年の今日>はまたしばらく空白である。

<本の紹介>
・覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)http://d.hatena.ne.jp/asin/4861139929
 「浅沼ヒロシの書評ブログ 晴読雨読日記  2013-06-09 覚悟の磨き方 超訳吉田松陰
  出版社さん、編集者さん、著者さんから書籍をお送りいただく機会が増えましたが、せっかくお送りいただいても、僕の読書スピードが追いつかず、レ ビューしきれません。せめて、書名と内容の概略を紹介させていただきます。
  内容紹介
 不安と生きるか
 理想に死ぬか
 外国の文明を学ぼうと、死罪を覚悟で黒船に乗り込もうとした。幽閉の処分となると、小さな塾を開いて、高杉晋作伊藤博文など、後の大臣や大学創設者になる面々を育てた。誰よりも遠くを見据えながら、幕末を熱く駆け抜けた天才思想家・吉田松陰。彼の「心」「志」「士」「友」「知」「死」日本史上、最も熱くてリアルな人生哲学が世代を超えて心に響く、強くてやさしい言葉でよみがえる。
 出版社からのコメント<担当編集者のコメント>
 日本史上、吉田松陰ほど「クレージー」を愛した人はいないでしょう。松下村塾という小さな塾から、その強烈なカリスマ性をもって、高杉晋作伊藤博文をはじめとする数多くの異端児たちを育てあげました。この本には、30歳という若さでこの世を去った松陰先生が、命がけで残そうとした「願い」が集まっています。それらを一つひとつ胸に刻むごとに、若き日々に置いてきてしまった「狂の心」が、ふつふつとよみがえってくるのです。
・戦前の生活: 大日本帝国の”リアルな生活誌” (ちくま文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4480430415