白井市事業仕分けに参加。

◆千葉県白井市事業仕分けに参加。
 ・事業仕分けとは、市の財政を健全に維持し、効率的で持続可能な行政サービスを提供していくために、市の行っている事業について、「そもそも必要なのか。」・「これが最適なやり方なのか。」といった視点で議論・評価し、行政サービスを整理するもの。事業仕分けは、様々な制度改革などに関わっている「構想日本」が、行政改革を目的に事業の必要性や本来の在り方を再考するため、考案したもの。
 ・消費生活相談・啓発推進事業 (市民経済部 商工振興課)
  企業誘致推進事業      (市民経済部 商工振興課)
  教育相談事業        (教育部 学校教育課)
  適応指導教室事業      (教育部 学校教育課)
  市民の森の適正な維持管理事業(環境建設部 都市計画課)
  公園緑地等住民管理推進事業 (環境建設部 都市計画課)
 これらの6つの事業に仕分け人の一人として参加。我々の議論を踏まえ、市民判定人がジャッジをする。仕分け人の判断と市民判定人の判断がことなることもあった。その場合には、市民優先である。

◆夕方実家へ。

(8月17日生まれの偉人)
◆岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年8月17日 - 1956年9月2日)は、千葉県東葛飾郡布佐町(現我孫子市)生まれの気象学者。
1899年東京帝国大学物理学科卒、ただちに中央気象台(現気象庁)に勤務。1905年には予報課長として日本海海戦当時の天気予報を出す。この予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」は、連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原典といわれる。
 1923年には第4代中央気象台長となり、以後1941年までその職にあった。在任中は世界に先駆けた海上船舶の無線通信(1910年)や地震観測網の整備・海洋観測船「凌風丸」の新造・全国気象官署の国営移管など、気象事業の発展に尽くしたほか、1925年に創刊された理科年表には、気象部の監修者として名を連ねている。
◆山口 多聞(やまぐち たもん、明治25年(1892年)8月17日 - 昭和17年(1942年)6月6日)は、大日本帝国海軍軍人。海兵40期。ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将。大西瀧治郎中将は「山口の死は一時に大艦数隻失う以上の損失」と死を惜しんだ。福留繁中将によれば、山口は航空に関しては素人であったため幕僚にいいかと聞く、いいかいいか司令と自称していたという。草鹿龍之介中将は、山口を「部内にも名望ある三拍子も四拍子もそろった名提督」と評価する。角田覚治少将は、山口の戦死を聞き、「山口を機動部隊司令長官にしてあげたかった。彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに」と死を惜しんだ。ニミッツ提督が山本機の撃墜の是非を「ヤマモトを殺しても、後任により優れた指導者が現れては困る」と情報部のレイトンらに諮った際、山本の後継者として真っ先に多聞の名が挙がり、レイトンは「彼は既に戦死しているから安心だ、ヤマモト(*)に代わり得る人物は日本には他にいない」と返答したという話もある。
 * 山本五十六 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130404

<昨年の今日>もまた空白である。