敬老の日とは。台風18号日本縦断近畿から東日本、北日本に大きな被害を。

敬老の日(けいろうのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は9月の第3月曜日。敬老の日は、国民の祝日に関する法律祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。2002年(平成14年)までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2001年(平成13年)の祝日法改正いわゆるハッピーマンデー制度の実施によって、2003年(平成15年)からは9月第3月曜日となった。 (当時、提唱者が存命であったため、提唱者から日付の変更について遺憾の意が表明された。)だが、初年度の2003年の9月第3月曜日が偶然9月15日であったため、敬老の日が9月15日以外の日付になったのは、2004年(平成16年)の9月20日が初めてである。
なお、敬老の日を第3月曜日に移すにあたって、高齢者団体から反発が相次いだため、2001年(平成13年)に老人福祉法第5条を改正して9月15日を老人の日、同日より1週間を老人週間とした。
 兵庫県多可郡野間谷村(後の八千代町を経て現在の多可町八千代区)の門脇政夫村長(のち兵庫県議会議員)と山本明助役が1947年(昭和22年)に提唱した「としよりの日」が始まりである。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、従来から敬老会を開いていた。これが1950年(昭和25年)からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。その後「としより」という表現は良くないということで1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称され、翌年に野間谷村からの政府への繰り返しの働きかけもあり、国民の祝日敬老の日」に制定された(「こどもの日」「成人の日」があるのに敬老の日がないのはおかしいと声を上げ続けたという)。このため、「母の日」のように日本国外から輸入されたような記念日と違い、日本以外の国にはない。ただし、五節句のひとつである9月9日の重陽と主旨が類似している。
 なお、提唱の町「八千代町」では小中学生が地域の年長者に向けて日々の感謝と敬意を表して手紙を書くという慣習を小学校に導入し、夏休みの宿題として読書感想文と並んで実施されるという誇らしい行為が行事化されていた。

台風18号関連
・午前8時 強風と雨。京都・舞鶴市は土砂災害・河川氾濫のおそれがあるとして、午前6時45分に市内全域に避難勧告を出した。滋賀・栗東市で住宅一棟が土砂崩れにより倒壊、70代女性の行方がわかっていない。また消防に入った連絡によると、午前5時40分過ぎ、福井・美浜町でも土砂崩れにより高齢女性1人と連絡が取れていない。京都・福知山市由良川の推移が上昇し重大な被害が出るおそれがあるとして、午前5時40分市内全域に避難指示を出した。
・台風の影響で滋賀・京都・福井に大雨特別警報が発令され、気象庁が午前6時10分頃に会見を開き、安全を確保する様に呼びかけた。警報が出ている3県以外にも、台風の北上に伴い、各地で警戒が必要となる。
・京都の桂川が氾濫、観光名所の渡月橋は今にも浸水しそうな状況にあり、9地点で24時間の降水量が観測史上最大を記録した。鴨川にある石橋は水の流れで破壊され、由良川も氾濫。福知山市の32世帯、92人が孤立され、宇治市も冠水状況にある。気象庁は会見を行い、各地に大雨特別警報を発令。滋賀県栗東市では土砂崩れで民家が崩壊。また、福井県美浜町でも土砂が崩れ、2棟が被害。京都の桂川が氾濫、観光名所の渡月橋は今にも浸水しそうな状況にあり、9地点で24時間の降水量が観測史上最大を記録した。鴨川にある石橋は水の流れで破壊され、由良川も氾濫。福知山市の32世帯、92人が孤立され、宇治市も冠水状況にある。
・午後2時過ぎ、台風18号北日本を北上していて、風雨が強く厳重警戒が必要。近畿から東北にかけて、土砂災害の危険性が非常に高くなっている地域もある。台風18号の予想進路と、予想雨量を紹介。宮城県石巻市で、突風によると思われる被害の通報が相次いでいる。大雨による土砂災害や、浸水・川の氾濫・暴風・高波などの被害に、厳重警戒するように呼びかけられている。

◆ リベラル系結集を模索 生活・社民統一会派の動き 小沢氏「このままじゃ死にきれない」
 野党内で憲法改正原発再稼働などに批判的な民主党の一部や生活の党、社民党などリベラル勢力が結集を模索している。民主党日本維新の会みんなの党による野党再編構想を「保守二大政党化」の動きと警戒。生活、社民両党による参院での統一会派構想などが浮上している。 「このままじゃ死にきれない」。生活の小沢一郎代表は最近、周囲にこう漏らす。国政選挙の敗北が続き、所属国会議員は今や9人。(2013/9/16付 日本経済新聞朝刊より)

(9月16日生まれの偉人)
◆竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物や屏風仕立てで遺る)、また、洋画(キャンバスに油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。

<昨年の今日>もまた空白である。

<となりの日記>
・2013-09-16 槇尾中学校 校長の日記 http://d.hatena.ne.jp/makio-koutyou/20130916