大雨のち晴れ。(連続350日)

◆明日接近または上陸すつ台風18号が前線を刺激し、関東地方も大あま。朝4時30分ごろから雨、そして雷。午後からうって変わり、晴天。台風の接近にあわせt、風が強くなってきた。深夜から大雨になる可能性がだい。河川の決壊、土砂崩れ等の被害が心配。

(今日の出来事)
台風18号 雨量500ミリ前後に 土砂災害などに警戒。
大飯原発4号機 国内の全原発 運転停止へ。 

稲盛和夫http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130121)が語る『燃える闘魂』とは
 京セラの創業者であり、日本航空を再生した立役者、稲盛和夫さんによる「稲盛経営12ヶ条」に続き、不況を成長のチャンスに変える4つの方策、さらには経営者が持つべき心構えまで、を語る
<ポイント>
○稲盛経営12ヶ条
1.事業の目的、意義を明確にする
2.具体的な目標を立てる
3.強烈な願望を心に抱く
4.誰にも負けない努力をする
5.売上を最大限に伸ばし、経費を最小限に抑える
6.値決めは経営
7.経営は強い意志で決まる
8.燃える闘魂
9.勇気をもって事に当たる
10.常に創造的な仕事をする
11.思いやりの心で誠実に
12.常に明るく前向きに、夢と希望を抱いて素直な心で
○京セラの繊維機械担当の営業マンが、静岡の釣り具メーカーに、セラミック製のガイドリングを「摩耗しないように」と売り込んだところ、「セラミックにすれば高くなるし、そこまでの必要はない」と断られた。ところがこの営業マンがあきらめず、「釣り糸が切れにくくなる」メリットをアピールしたところ、試してもらえることになった。実際に使ってみると、従来の金属製のガイドリングでは、負荷がかかった時に熱で糸が切れてしまう。同じことをセラミックのガイドリングで試してみたところ、案の定切れなかったということで、採用してもらえることになったという。驚くのは、これがきっかけで多くの高級釣り竿にセラミック製ガイドリングが搭載されたこと。ちなみに同社は、40年経った今でもこのガイドリングの注文を、「ひと月に数百万個ほど頂戴している」のだそうです。
○ものごとをなそうとするには、みずから燃える人間でなければならない。
○不可能だと思えるようなことがやれなかったら、大事を成し遂げることはできない。
○自分の会社、従業員を何としても守る、という強い責任感を経営者が持てば、腹はすわってくる。
○不況を成長のチャンスとする具体的な方策
1.従業員との絆を強くする
2.あらゆる経費を削減する
3.全員で営業する
4.新製品、新商品の開発に努める
○不況のときにこそ、新製品、新商品の開発に努めること。
○ビジネスは「燃える闘魂」をもって挑まなくてはならないが、その前提として「世のため人のため」といった高邁な精神を備えていなくてはならない。
○「足るを知る」とは、中国・春秋時代の思想家である老子の「足ることを知る者は富めり。強(つと)めて行う者は志有り」という思想にもとづくものである。つまり、「持てるもので満足することを知る者こそが本当に豊かなのであり、そのように自分に強いて行動できる者こそが、その目指すところを得る」ということを意味する。
○なぜ日本人は、高度なものづくりの技術を蓄積することができたのであろうか。そこには、日本人の敬虔で高い精神性が色濃く反映されている。たとえば、伝統工芸の世界では、匠たちは仕事の前に身を浄め、ときに刀匠のように白装束に身を固める。これは、ものをつくるということは神聖な行為であり、したがって、ものをつくるに際しては、みずからの身を浄め、魂を浄化する必要があり、さらにはそうしたことを通じて、つくるものに魂を入れなければならないと考えてきたからにほかならない。その根底には、物質と精神を分けて考える西洋的な二元論的発想ではなく、ものと心はひとつであるという「物心一如」の日本固有の世界観がある。
○「機械の泣いている声」、あるいは「製品の泣いている声」が聞こえるほど、心を込め、魂を注ぎ、機械や製品に対して心情移入をしていかなければならない。そして、機械や製品と一体化し、考えうる限りの努力と創意工夫を重ねていく。そうして初めて、ものづくりの神に「うまくいってくれ」と祈ることができ、すばらしい製品を生み出すことができる。
 (参考)『燃える闘魂稲盛和夫・著 毎日新聞社  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4620321664

(9月15日生まれの偉人)
◆村山 槐多(むらやま かいた、1896年9月15日 - 1919年2月20日)は日本の洋画家。
 母たまは結婚前に森鴎外家で女中奉公をしており、その縁で鴎外が名付け親となった。10代からボードレールランボーに読み耽り、詩作もよくした。その早熟さ、デカダン的な生活、貧しさや失恋による心の痛みなどにより、結核性肺炎を患っていた。また、22歳で夭折した点まで同時代の関根正二とよく比較されるが、2人の作風はまったく異なっている。画家自身のほとばしる情念や不安を反映した村山の人物像は、器用ではないが、一度見たら忘れられない強烈な印象を残すものである。画家の山本鼎は従兄。

<昨年の今日>も空白である。