「仕事のなかで自分を磨け - 中国古典の名言に学ぶ。守屋 洋 (中国文学者)」より

●仕事のなかで自分を磨け - 中国古典の名言に学ぶ。守屋 洋 (中国文学者) 《『勝つためにリーダーは何をなすべきか〜中国古典の名言に学ぶ』より》
人はすべからく事上に在って磨錬し、功夫 (くふう) を做 (な) すべし。乃ち益あり〔『伝習録』下巻〕
洞察力や先見力を身につけるためには、「歴史に学べ」「古典に学べ」と言いました。しかし、それだけではまだ十分とはいえません。この上何が必要なのかと言いますと、ここに引いた言葉がそれを物語っています。わかりやすく訳してみましょう。「人は毎日の生活や仕事のなかで自分を磨かなければならない。そうあってこそ初めて効果があがるのである」 というのです。
 これは、陽明学を唱えた王陽明という人が語った言葉です。この言葉から「事上磨錬」という有名な四字句が生まれたことはよく知られています。ご承知のように、陽明学はなによりも実践を重視した思想として知られています。むろん陽明学といえども、歴史に学ぶことや古典に学ぶことを軽視しているわけではありません。しかし、それらにも増して重視したのが、実践を通して自分を磨けということです。そういうなかから「事上磨錬」という四字句が生まれてきたのですが、いかにも実践重視の陽明学らしい言葉ではありませんか。実学を離れた学問は空学問だ。この「事上磨錬」ですが、大切なことなので、もう少し、王陽明の語ることに耳を傾けてみましょう。あるとき、下役人をしていた弟子の一人がこんな感想をもらしました。「先生はたいへんすばらしい学問を教えてくださいますが、なにしろ私は、帳簿の整理や裁判の審理に追われて、それを実行する暇がありません」これを耳にした王陽明は、こう語っています。「私は君に、帳簿の整理や裁判の審理など、日常の仕事を離れて抽象的な学問をせよと教えたことは、一度もなかったはずだ。君には役所の仕事があるのだから、その仕事に即して学問すべきである。たとえば、事件を審理する場合を考えてみよう。相手の対応が礼にはずれているからといって、腹を立てるべきではないし、逆に相手の言うことが如才ないからといって、うかつに気を許してはならない。また、相手がまわりから手を回しているからといって、へんに意固地になってもいけないし、逆に、柏手の要請に屈して、便宜をはかってやるようなことをしてもいけない。さらに、煩雑で面倒な仕事だからといって、かってに手を抜いていい加減な処理をしてはいけないし、まわりが非難中傷するからといって、それに引きずられて、処分を決めたりしてはならない。帳簿の整理や裁判の処理といえども、すべてこれ実学でないものはない。それらの仕事を離れて学問をしようとするのは、役に立たない空学問になってしまうのがオチである」こう語っています。
 つまりは「本を読むだけが勉強ではない。仕事のなかで自分を磨け。それも立派な勉強なのだ」ということであろうかと思います。
◇カンは経験を積むことで磨かれる
 ただし、仕事のなかで自分を磨けといいましても、毎日の仕事というのは、よほど激しい変化にでも見舞われないかぎり、同じことの繰り返しが多いものです。そういうなかに身を置いておりますと、どうしても惰性に流され、マンネリに陥っていきます。そうなると、何も身につきません。そうならないためには、常に問題意識を持ち、気持を引き締め、創意工夫をこらして仕事に取り組む必要があります。そうすれば必ず何かが身についてくるはずです。それを言っているのが、陽明学の「事上磨錬」に他ならないのです。
 わかりやすい例をあげれば、たとえば、仕事のコツとか経営の勘です。こういうものは、いくら経営書のようなものを読んで理屈を詰め込んでも、それだけではダメです。また、人の話をいくら聞いても、それだけでは身につきません。やはり地べたを這いずりまわり、時には悩み、時には苦しみながら、そういう苦労のなかでしか身につかないものです。つまり、現場のなかで苦労し、現実の体験に裏打ちされて、初めて血となり、肉となっていくのではないかと思います。洞察力や先見力を磨くうえでも、同じことが言えるのではないでしょうか。
 わずかな徴候から、風向きの変化を読みとり、「これはやばいぞ」と危険を察知して、患を未然に防ぐ能力というのは、たんなる理論のレベルを遥かに超えています。そういうものもやはり苦労のなかで経験を積むことによって磨かれていくのではないかと思います。
◇苦労の中でこそ人間力は高まる
 苦労といえば、こんな話を聞いたことがあります。もう亡くなりましたが、知り合いのなかに、易学、つまり占いですね、易学の理論を科学的に究明する、そんな研究をしていた人物がいました。その人から聞いた話ですが、まだ易学の勉強を始めたばかりの若いころ、当時、名の売れていた易占いの大家を何人か訪ねてまわり、教えを請うたというんです。
ところが、話を聞いてすぐにわかったのは、どの相手も易の理論についてはたいしたことはなかった。厳しい言い方をすれば、素人に毛の生えた程度だったというのです。
しかし、少し話を聞いているうちに、これまたすぐにわかったことは、皆さんえらい苦労人で、これについては、一人の例外もなかったということでした。
私は占いというものに関心がありませんし、今の易者さんたちがどうなのかもわかりませんが、この話を聞いたとき、「なるほど、そうだろうな」と、妙に納得したことを覚えています。人生の苦労をなめ尽くした人たちだからこそ、目の前に座った客の顔つきや様子を見ただけで、どんなことに悩み、どんなことに苦しんでいるのか、ピタリと見抜いて、適切な指示を下すことができたのでしょう。筮竹(ぜいちく)をじゃらじゃらさせるのは、もったいをつけるための道具立てにすぎなかったのかもしれません。
苦労することによって人を見る目も磨かれていくという話ですが、近ごろ心配なのは、恵まれすぎた不幸というのでしょうか、経営者でも若い世代は、苦労から逃げる傾向が見られることです。「楽をしたい」、「楽しく生きたい」という気持もわからないではありませんが、それだけでは人間が磨かれていきません。土壇場になって物を言うのは、苦労のなかで磨かれた人間力なのです。
 洞察力や先見力にしても、苦労のなかで磨きあげられていくのだということ。このことを決して忘れないでください。
●事上磨練(じじょうまれん)
「事上練磨」ともいう。王陽明の説く自己修養のあり方。思想というものは時に現実から遊離して一人歩きをし易いものであるが、王陽明はそれを戒め、本当の思想・理念というものは決して日々の生活から遊離するものではなく、何ら変わらぬ日常において自らの良知を致す事こそが、真実の意味における学問であり自己修養なのだと説いた。王陽明の思想が実践哲学であるとされる所以であり、「知行合一」と共にその思想の根本を成す。出典は伝習録の教約。
 事上磨錬 意味 実際に行動や実践を通して、知識や精神を磨くこと。明みん代の王守仁おうしゅじん(陽明ようめい)が学問の修養について、日常の行為を離れて思索する静座に対して、実際の日常の行動をこなし、これを通して修養するのが真の学問であると述べた説。▽「事上」は実際のことに当たりながらの意。「磨錬」は練り磨く意。
●『事上磨練』
 自分の持ち場持ち場で自分を磨くことこそれを素行自得と言います。とてもよい言葉です。そしてそれを今日のS先生の論語塾でも教えてもらいます。しかし分かっていてもあまり出来ていない自分がいるのも事実です。『中国古典の名言に学ぶ勝つためにリーダーは何をなすべきか』という本です。その一節に『人はすべからく事上(じぎょう)に在って磨錬(まれん)し、功夫(くふう)を做(な)すべし。及ち益あり』とあります。この言葉を4文字熟語にすると『事上磨錬』といい、陽明学を唱えた王陽明が語った言葉です。あるとき、下役人をしていた弟子の1人が、「先生たいへん素晴らしい学問を教えてくださいますが、何しろ私は帳簿の整理や裁判の審理に追われて、それを実行する暇がありません」といいます。それを聞いた王陽明は君に、帳簿の整理や裁判の審理など、日常の仕事を離れて抽象的な学問をせよと教えたことは一度もなかったはずだ。君には役所の仕事があるのだから、その仕事に即して学問すべきである。たとえば、事件を審理する場合を考えてみよう。相手の対応が礼にはずれているかたといって、腹を立てるべきではないし、逆に相手の言うことが如才ないかといってうかつに気を許してはならない。また、相手がまわりから手をまわしているかといって、へんに意固地になってもいけないし逆に相手の要請に屈して、便宜をはかってやるようなことをしてもいけない。さらに、煩雑で面倒な仕事だからいって、かってに手を抜いていい加減な処理をしてはいけないし、まわりが誹謗中傷するからといって、それに引きづられて、処分を決めたりしてはならない。帳簿の整理や裁判の処理といえども、すべてこれ実学でないものはない。それらの仕事を離れて学問をしようとするのは、役に立たない空学問になってしまうのがオチである」と言います。僕自身に言っているかのように頭をガツンと叩かれた感じです。そして本を読むだけが勉強ではない。仕事の中で自分を磨け、それも立派な勉強であると言っています。当然よほど激しい変化でも見舞われない限り同じことの繰り返しが多いものです。マンネリにならないために常に問題意識を持ち、気を引き締め創意工夫をこらして仕事にとりくむことが必要です。そうなれば必ず何かが身についていくとあります。※如才(じょさい)‥気を使わないために生じた手落ちがあること。また、そのさま。手抜かり。多く、下に否定の語を伴って用いる。
 ●先見力と洞察力について
 これからの時代、ビジネスパーソンに絶対に必要な能力は、今日のテーマである”先見力と洞察力”ですね。どちらも微妙な変化を嗅ぎ取り、そこから今後の対応や方向性を考える能力です。企業のこれからの方向性や経営戦略を決めるとき、まず、時代の流れや動きを読む必要がありますね。これが、先見力です。また、物事(政治的判断など、たとえば今の麻生政権の衆議院解散時期ですね)への対応を誤らないためには、人間を読む目も磨く必要があります。これが洞察力ですね。この先見力と洞察力について、中国古典を取り上げ、この2つについて著者は、次のように述べています。中国の古典では、君子とは能力と人格を兼ね備えた人物を言います。このような君子は、かすかな徴候を見ただけで、これから起こる事態を察知して、始めを見ただけで終わりがどうなるか分かる。それで、不幸な事態を避ける事ができる、と「三国志」で有名な諸葛孔明が述べています。これからわかるように、中国でも昔から先見力と洞察力が必要だったのですね。つまり、昔からリーダーにとっては、この2つの能力が必要条件なのですね。また、この本で、「孫子」という有名な兵法書で、将たる者、つまりリーダーの条件として5つを挙げていますが、「智」すなわち洞察力をまっ先に挙げています。ちなみに、他の4つは、約束を守る、思いやりの心、決断力、信賞必罰の厳しさ、です。
 なぜ、洞察力かと言えば、戦では、勝つ事が原則であり、負けたら一貫の終わりですね。そのためには、戦いを始める前に、双方の戦力分析を行い、勝てる見通しが出来てから(戦略を立てる)から戦を仕掛けますね。その時必要な能力が、洞察力です。「孫子」では、戦いが始まって、戦場で双方が相見えた場合に、「相手の出方に応じて臨機応変に戦え。それが勝つ秘訣だ」と述べています。この臨機応変に戦うためには、常に相手の動きに目をこらし、わずかな徴候や変化からも相手の意図を見破って応戦する必要がありますね。「孫子」では、これが「智」と言っています。正確に言えば、ここでの「智」とは、洞察力だけでなく、先見力も含まれますね。戦いの風を読む必要も有りますからね。では、先見力や洞察力を身に付けるには、どうすればいいのでしょうか? この回答として、「論語」に、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以って師たるべし」つまり有名な「温故知新(おんこちしん)」ですね。過去の歴史を学ぶ事で、現代の現象が理解でき、その先を想定し、対応を考えるという、先見力、洞察力を磨くことができますね。ちなみに、「温故知新(おんこちしん)」の意味ですが、”過去の歴史を学ぶ事で、現代に対する洞察力を深めていく。こういう人物こそ指導者としてふさわしい”ですね。したがって、リーダーは、歴史を学び、歴史感覚を持つ事ですね。著者は、歴史を学ぶ事による2つのメリットを紹介しています。1. 先人達の成功と失敗のケース・スタディの参考書として活用できますね。文化遺産として何千年もの歴史があり、人間の本質は変わる事がないですからね。同じ失敗を何度も、何度もしています。失敗の原因を理解する事です。失敗しなければ、成功に結びつくわけですからね。

◆『町が…村が…自ら稼ぐ!』(2013年9月24日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京ガイアの夜明け」より)
 福岡市の高級寿司店で、いろどり社長の横石さんと長浜食品の松畠社長による商談が行われていた。横石さんは、店のオーナーからの赤く色づいた葉っぱが欲しいとの注文に、パソコンを使って作業を始めた。徳島・上勝町では、高尾さんが葉っぱ農家を営んでいる。高尾さんは、山の畑でタブレット端末を取り出し、横石さんが送った注文情報を確認した。高尾さんは情報を受け取って作業を始めた。高尾さんは注文によって赤もみじや柿の葉を販売している。上勝町が葉っぱビジネスを始めたのは26年前。今では約200人のお年寄りが参加し、中には年収1000万円を稼ぐ人もいる。葉っぱビジネスの仕掛け人が、いろどりの横石社長。今では、若者にも注目され始めている。徳島・上勝町で採れたつまものに使われる葉っぱを紹介。上勝町の葉っぱビジネスには、今では年間2億6000万円もの売上があるという。上勝町は葉っぱビジネスで成功したが、現在は人口減少と高齢化に悩まされている。そこで上勝町は、若者を呼び寄せようと様々なビジネスを立ち上げることを考えた。徳島・上勝町で葉っぱ農家を営む高尾さんは、研修にやってきた若者の世話をしていた。上勝町は3年前からインターンシップ制度を開始。年間120人程度が参加し、平均年齢は29歳だという。上勝町は葉っぱビジネスで成功を修めたが、ある大きな問題を抱えている。上勝町役場で花本町長は、「後継者不足が問題となっている」と話した。15年間空き家になっていた上勝町の古い民家では、インターン制度を利用してそのまま移住した井川さんが暮らしている。井川さんは古民家を拠点に、この地方にしかない伝統的なお茶に目をつけ、「いろどり晩茶」と名づけて販売を決めた。農家の山田さんは、米や野菜と共にお茶も作っている。上勝町の農家は、これまで山に自生した木から阿波番茶を作ってきた。井川さんは地元の農家にこまめに足を運ぶことで信頼関係を築き、この阿波番茶を「いろどり晩茶」として販売を行なっている。井川さんは、あいさい広場という人気の高い野菜や果物の直売所を訪れた。そこで井川さんは、いろどり晩茶の売り込みを始めた。井川さんはいろどり晩茶をペットボトルに詰めたものをあいさい広場に持ってきていた。いろどり晩茶の人気は高いという。現在、コンビニやスーパーなどにも並び、決まり文句は「上勝町からお届けします」。月平均3000本売れている。井川さんは仕事で困ると、必ずいろどり社長の横石さんのもとを訪れる。横石さんは移住してきた人の起業を町の雇用促進、地域の活性化のため支援している。現在、上勝町では7つの新ビジネスが産声を上げていた。横石さんの指導のもと、夫婦で起業した若者もいる。徳島・上勝町松本輝実さんも新しい企業を立ち上げた1人で、町内だけで消費されていた上勝町の野菜をインターネットを通じて全国に配達、販売することを考えた。夫・卓也さんは都会で育ちながらも勉強を兼ねて農家の収穫を手伝うアルバイトをしている。2人は上勝町の自然で育った野菜に注目、8月は野菜セットが30箱売れて売り上げは13万円だった。輝実さんは、自分の好きな街を残すために何が出来るか考え、帰省し自分に出来ることをしたいと思ったと話した。
 山崎製パンのヒット商品はランチパックで、全国ではご当地ランチパックが作られ、ランチパック 富良野産メロンのジャム&ホイップやランチパック 山ぶどうあん&ホイップなどを作り、山崎製パンは地元で手を組み地方の活性化を図っている。そして新たに和歌山・北山村が地元活性化を狙い山崎製パンと手を組んだ。山崎製パンは和歌山・北山村と手を組み、村が経営するヤマザキショップ じゃばら屋が今年7月にオープン、じゃばらを使った「じゃばらサイダー」などが売っている。村には観光客が年間5万人訪れるが、商店がなく買い物する場所がなく不便という声に応え、村はコンビニを作った。北山村役場の池上さんは観光客の不便という声にコンビニを作る計画を立てたが、コンビニチェーンは過疎化を理由に断り、唯一話に乗ったのが東京・千代田区に本社を置く「山崎製パン」だった。山崎製パンは現在、過疎地域や離島に出店攻勢をかけており、全国に流通網を持ってるためにどこにでもパンを届けることが出来る。和歌山・北山村の「ヤマザキショップ じゃばら屋」は観光シーズンが終わると店は客がまばらとなり、利用するのは近くの住人だけになっていた。北山村は4つの集落に分かれており、コンビニから遠い地域は8キロも離れているために村人にはあまり利用されていない。売れ残った商品は池上さんが買い取り、存続の危機を迎え、北山村役場で責任者で今後の対策が錬られた。9月6日、店に客を呼び込むために山崎製パンの郄橋さんも加わり池上さんは宣伝をし回った。山間部の村には移動販売車が運んでくるため村人たちはコンビニを利用をしていなかったが、山崎製パンは村のご当地ランチパックを作り逆襲に出ようとしていた。和歌山・北山村の特産品は、じゃばらという柑橘系の果物。その畑に、山崎製パンの高橋さんの姿があった。高橋さんは、このじゃばらを使おうと画策している。山崎製パンの人気商品であるランチパックに、じゃばらを使うことを考えているという。高橋さんがこのアイデアを池上さんに伝えたところ、池上さんは「じゃばら胡椒」という商品を紹介。さっそく、このじゃばら胡椒を使って大阪第二工場では商品開発が始まった。高橋さんは、じゃばら屋での特売も考えていた。チラシを持ち、高橋さんは一つ一つの集落を歩いて回った。さらに村役場では、山奥ならではの放送という伝達方法で特売を伝えた。販売日当日、北山村のじゃばら屋では試験的に生鮮食品も並べての勝負の日が始まった。宣伝効果もあり、村人も続々と集まった。地元の人が普段食べないカップ麺やアイスクリームが飛ぶように売れていた。朝食にはパンは食べないと言っていたおばあちゃんも、サンドイッチを買っていた。生鮮食品の売上も好調だった。この日、じゃばら屋には村人の半数以上が来店していたという。売上は22万7926円だった。北山村のご当地ランチパックの試作品が出来上がった。試食をしてもらった村人からの評価も上々だった。池上さんも動き出し、交通の便が悪い村の奥地の住人との間で郵便局と提携したコンビニ商品の宅配を約束した。

(9月24日生まれの偉人)
◆服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月24日 - 1956年(昭和31年)3月4日)は、日本の歴史学者マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。島根県浜田市金城町出身。東京帝国大学文学部社会学科卒業。大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍。東洋大学講師、中央労働学園大学教授、(中央労働学園大学と法政大学との合併により)法政大学社会学部教授などを歴任。『日本資本主義発達史講座』では、明治維新研究について論文を寄せ、また日本資本主義論争においては土屋喬雄と論争を繰り広げた。服部は、「維新史方法上の諸問題」(『歴史科学』1933年4-7月号)において、明治維新時の経済は、『資本論』によるところの「厳密なる意味におけるマニュファクチュア時代」(本来的マニュファクチュア時代)であるとした(「幕末=厳マニュ説」)。土屋はこれを実証性が欠けるとして批判し、「問屋制家内工業段階説」を唱えた。1936年(昭和11年)に花王石鹸の委嘱を受け、社史を編纂。1938年(昭和13年)には花王に入社し、宣伝部長。戦後は鎌倉アカデミアの教壇に立ち、法政大学社会学部では「社会学理論」担当。
◆加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 2004年4月6日)は、日本画家、版画家である。1927年、京都府西陣織の図案家の子として生まれる。京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。山本丘人に師事。1966年多摩美術大学教授、1988年東京芸術大学教授に就任。東京芸術大学名誉教授。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した。