本日は本社の視察

◆本日は夕方本社からの視察。概要説明.

◆いよいよ明日から立冬。季節は冬に近づく。山茶花の花がさきほほこる季節であり、寒さも一段と厳しくなってくる。まさに、ひと雨ごとに寒さが増してくる今日この頃である。また風邪の影響か、通勤電車の中で、マスクをしている人の姿も目立つ。昨年のブログにも書いたが、これからひと雨ごとに寒さが一段と厳しくなってくるのであろう。そうすると、明日からが心配である。

(11月6日生まれの偉人)
◆鮎川 義介(あいかわ(本名は「あゆかわ」よしすけ、1880年明治13年〉11月6日 – 1967年〈昭和42年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。
 1952年(昭和27年)、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。会長に就任。以後、中小企業の振興に尽力。1953年(昭和28年)、帝国石油社長、石油資源開発社長。参議院議員に当選。1956年(昭和31年)、日本中小企業政治連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。その後主として政治家としての晩年を送る。また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長。産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)就任。1959年(昭和34年)、全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した次男金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、12月に責任をとり議員辞職
 1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。1929年(昭和4年戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し自動車用マレブル鋳鉄製造開始。同年4月24日、日本産業の鉱業部門が分離独立、日本鉱業株式会社を設立。1933年(昭和8年)、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121106