隅田川公園に「花」の歌碑がある。今日生誕の武島羽衣の作品である。そして“無名の町”をブランドに!

◆『花』 作詞:武島 羽衣  作曲:滝 廉太郎
一  春のうららの 隅田川
  のぼりくだりの 船人が
   櫂(かい)のしづくも 花と散る
   ながめを何に たとふべき
二  見ず家あけぼの 露浴びて
  われにもの言ふ 桜木を
  見ずや 夕暮れ 手をのべて
  われさしまねく 青柳を
三  錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
  くるればのぼる おぼろ月
  げに一刻も千金の
  ながめを何に たとふべき
<解説>この曲は、東京音楽学校に赴任直後の武島が書いた詩に、同校助教授だった滝が曲をつけたもので、一九〇〇(明治三三)年に組歌「四季」として出版されました。春夏秋冬の四部作の「春」にあたるこの曲は、当初のタイトルは「花盛り」だったという事を知る人は少ないかもしれません。日本人の手による歌曲の第一号であり、また、合唱曲としても第一号であり、唱歌の域をはるかに超えた日本初の芸術歌曲なのです。唱歌「四季」の春は「花」ですが、他の季節は以下、「納涼」(東くめ作詞)、「月」(滝作詞)、「雪」(中村秋香作詞)、いずれも作曲は滝が担当しています。
 作詞の武島は、日本橋の木綿問屋の息子(本名は又次郎、号を羽衣)として生まれました。赤門派の詩人としても有名な美文家ですが、一九二二(大正一一)年には御歌所寄人(おうたどころよりゅうど)を命ぜられ、のちに短歌に転じた(桂園派の最後の歌人として有名)、著名な国文学者です。作曲の滝はピアニストでもある明治の作曲家で「荒城の月」「お正月」「箱根八里」等の名曲を世に送りだしています。歌詞一番の「隅田川」と、二番の「露浴びて」とでは、メロディが変えてあるのが特徴です。「一刻も千金」は、漢詩の句「春宵一刻値千金」(蘇軾「春夜」)を引用しています。女学校時代の卒業生の集まりや、コーラスのレッスン会場、またその発表の場で、よく歌われる曲「花」。大勢で気持ちよく合唱することの楽しさを、春のすがすがしさを、春風に乗って感じられる花や空気や太陽の香りを…、たくさんのことを私たちに教えてくれる「花」。そんな素敵な明治生まれの歌は、今も私たちの周りで綺麗な川水の流れと共に、いつまでも歌い継がれていく、いえ、私たちこそが、次代のために歌い続けていかねばならないのですね。
 そして今日のトラックバックは http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130601/p1

(今日の出来事)
・安部首相 米副大統領 記者発表 。安部総理はバイデン副大統領と総理大臣官邸で会談した後、揃って記者発表を行い中国が東シナ海防空識別圏を設定したことについて現状の一方的な変更は認められないとして力強い日米同盟に基づき、緊密に連携して対応していくことで一致したことを明らかにした。

◆『目立たぬ“ご当地”をブランドに!“無名の町”をブランドに!大繁盛の居酒屋…その秘密』(2013年12月3日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京
ガイアの夜明け」より)
 江口洋介が、日本橋にある北海道・厚岸にこだわったご当地居酒屋「カキ酒場 北海道厚岸 日本橋本店」を訪れる。店内には厚岸産のカキなどの魚介類や農作物、さらに厚岸で作られている調味料なども販売されていた。この店の店員さんはサービスだけでなく、接客中に厚岸のPRも行なっていた。厚岸町は北海道東部に位置する漁業と酪農がメインの人口1万人ほどの町。特産品はカキで日本で唯一1年を通して出荷することが出来る。厚岸漁業協同組合直売店にはカキ酒場から連日注文が入り、その日水揚げされたものを発送していた。現在このような町村名を店名にしたご当地酒場が次々とオープン。これらのお店は全て一つの会社・fun functionが運営。fun functionの合掌智宏社長は「町そのものをブランド化したい。そういうビジネスモデルを作りたい」と語った。
 長崎県小値賀町をご当地酒場の仕掛け人、fun functionの合掌智宏社長が訪れる。社長は新たなご当地酒場に、170種類もの魚が水揚げされる小値賀町を考えていたのだった。さらに畑にも向かい店で出せるものがないかを調べたが、マメが大きくなりすぎて出荷できないが味は申し分ないサヤエンドウなどを発見した。小値賀町役場を訪れた合掌社長は、西浩三町長と対面しプレゼンを行なった。ご当地酒場の成功には地元自治体の協力が不可欠。ご当地酒場は町からの補助金は一切もらわないが、その代わり公認してもらい町の新鮮な食材を優先的にまわしてもらうのが狙いだった。東京・日本橋にあるワンルームマンションにfun functionの本社はあった。合掌社長は26歳で上京し居酒屋で勤務し、4年前に最初のご当地居酒屋をオープンさせたのだった。そのアイディアは北海道フーディストというアンテナショップを訪れた時に思いついたものだった。合掌社長は単なる北海道ブランドではなく、より細かい○○町のようなもので売り出すほうがチャンスがあると考えていた。田町にあるご当地酒場の一つ「佐賀県三瀬村ふもと赤鶏」を取材。こちらのメインは村が売り出した「ふもと赤鶏」をつかった焼き鳥だった。合掌社長は八重洲にある元マージャン店を改装して三瀬村の2号店を作ろうとしていた。三瀬村はリンゴの産地で「やかた」という品種を栽培。お店が2店舗に増えることで、扱える食材なども増えるのだった。ご当地酒場の仕掛け人fun functionの合掌智宏社長が、佐賀県三瀬村を訪れる。2号店を開くため新たな食材を探していたが、村でユズの栽培を行なっている農家の方々が、ユズで作ったドレッシングを是非使って欲しいと売り込みに来ていた。そのなかの1人高島さんは、合併前の三瀬村最後の村長で、10年前に村おこしのためにユズの栽培をはじめ、昨年やっと出荷が出来るようになったのだった。11月14日、八重洲佐賀県三瀬村ふもと赤鶏 2号店がオープン。スタッフが三瀬村の宣伝マンになる…というのが重要なポイントで、三瀬にはオープン直後から多くの人が押し寄せた。メニューには特産のリンゴや、ユズのドレッシングを使ったものなどが並んだ。店には佐賀市の秀島敏行市長も訪れ、従業員達にエールを送った。
 熊本県阿蘇市。週2回今話題の豪華寝台列車ななつ星が訪れるが、乗客たちを迎えるのがホームイの脇にある「レストラン 火星」だった。この店は普段の日も満員の盛況ぶりだが、人気の秘密は食材の殆どを、あか牛などの阿蘇の食材でそろえている点にあった。中でも絶賛されているのが、阿蘇ひばり工房が作ったロースハム。いま阿蘇の町には「然」と書かれたポスターが数多くあったが、このポスターがとんでもない力を発揮していた。熊本県阿蘇カルデラカルデラは火山の噴火によって出来た窪地の事で、この窪地の中にあるのが阿蘇で、このような場所にある街は世界でも珍しいものだった。その光景を求めてかつては観光地として人気だったが、今は観光客が激減。阿蘇で行なわれている観光客を取り戻すための取り組みに迫る。観光客が激減してしまった熊本県阿蘇市の、観光客を復活させようという取り組みに密着。阿蘇市役所ではかつての輝きを取り戻すため、阿蘇に暮らす様々な人たちを「然」というキーワードでくくり売り出そうとしていた。然ブランドを取りまとめる佐藤祐幸さんは、自然ではなく人を主役にするブランド戦略であると説明した。この日、佐藤さんは然ブランドに選ばれている阿部牧場を訪れた。阿部寛樹さんは300頭の乳牛を育て、乳製品を製造している人物。阿蘇の土にはミネラルが豊富で、良質な牧草が育ち、それを食べた乳牛のミルクもまた上質。かつて阿蘇にはミルクロードとも呼ばれる場所があり酪農が盛んだったが、酪農を営む人は減少傾向にあった。阿部さんは今までの田舎の魅力とは別の魅力をブランドの力で出すことで若い人を集めたいと、然ブランドに期待を示した。然ブランドには2011年にアメリカ最大のお茶コンテストで優勝した長田製茶も選ばれている。ここの長田浩二さんも然ブランドに期待している一人だった。11月羽田空港に佐藤さんが降り立った。佐藤さんは然ブランドを全国に売り込むため、とある企業とタッグを組んで商品開発を進めていた。開発と中のため企業名を明かさない約束で取材を行なったが、現場には阿蘇の溶岩石があり、これを使って缶コーヒーを造ろうと試みていた。さらに阿部牧場の牛乳も持ち込まれ、カフェオレも試されていたが、缶コーヒーには不向きとの結果だった。長田さんのお茶は風味がよく、商品開発が進められることとなった。観光客が激減してしまった熊本県阿蘇市の、観光客を復活させようという「然ブランド」の取り組みに密着。ブランドを担当する佐藤祐幸さんは、商品サンプルを持って長田製茶の長田浩二さんの元を訪ねた。早速長田さんの茶葉で作ったサンプルを試飲してもらったが、長田さんは「なんか違うね…酸っぱくなっている」と表情を曇らせ、繊細な風味を出す方法をアドバイスした。佐藤さんはその足で、阿部牧場を訪れ商品開発の結果を伝えた。阿部さんの牛乳は牛乳の美味しさは絶賛されたものの、缶コーヒーに加工するには不向きだった。今回はうまくいかなかったが、それでも阿部さんは然ブランドに期待を寄せていた。11月中旬、この日も佐藤さんは然ブランドを売り込むため全日空と交渉していた。その結果然ブランドの商品を機内食や空港ラウンジで扱えないか検討してもらえることとなった。ある日、佐藤さんのもとに東京の会社から然ブランドの飲料が届けられ、市民を集めての試飲会が行なわれた。お茶や溶岩石を使い焙煎したコーヒーが持ち込まれたが、缶コーヒーの缶のデザインも阿蘇一番の眺望と呼ばれる涅槃像を採用するなど細部にもこだわりがもたれていた。観光客が激減してしまった熊本県阿蘇市の、観光客を復活させようという「然ブランド」の取り組みに密着。11月21日然ブランドをお披露目する発表会が行なわれ、佐藤義興市長自ら認定された1人ずつ認定書を手渡した。今回認定されたのは76人で、お披露目会の後には、自慢の品を持ち寄り交流会が行なわれたが、然ブランドに選ばれた者同志が刺激しあって、次々と新たなアイディアが生まれていた。
→→*「旅行や出張で全国各地を訪れると地元の美味しい料理や特産品に出合う。しかしまだまだ全国的には知られていないものも多く、町や村をブランド化することで、埋もれている魅力を掘り起こし全国に発信する努力も必要かもしれない。そこに新たな観光の掘り起こしであり、商品販売のみちがあるのであろう。」


◆今日の情報 「国家機密と刑事訴訟 特定秘密保護法案の刑事手続上の論点 」http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20131202
                                    http://iwj.co.jp/wj/open/archives/114466
                                    http://kokucheese.com/event/index/125085/

(12月3日生まれの偉人)
◆武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872年12月3日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は日本の詩人、国文学者、作詞家。宮内省御歌所寄人。本名・武島 又次郎。明治26年1893年)に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学)国文科入学し黒川真頼、物集高見らに師事。1895年には創刊された『帝国文学』編集委員となり、詩や文章などを発表。詩『小夜帖』が高山樗牛から絶賛されたことにより、彼の詩人としての名声が高まった。1896年に卒業後、大学院に進学し上田万年に師事する。その後、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)などの教授を務めた。1910年から1961年まで日本女子大学で教鞭をとり、同時期に聖心女子大学実践女子大学でも国文学を講じるなど女子教育に尽力した。また大正大学創立時にも国文学を担当している。田中穂積作曲の「美しき天然」、滝廉太郎http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130824)の歌曲「花」の作詞も行なった。
◆永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壮吉(ながい そうきち、旧字体:壯吉)。
 永井久一郎の長男。広津柳浪(りゅうろう)の門にはいる。アメリカ,フランスに外遊,帰国後「あめりか物語」を発表する。明治43年慶大教授となり「三田文学」を創刊。大正5-6年の「腕くらべ」、昭和12年の「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」などおおくの作品をのこす。市井に隠遁し、反時代的姿勢をつらぬいた。27年文化勲章。29年芸術院会員。昭和34年4月30日死去。79歳。東京出身。東京外国語学校(現東京外大)中退。作品はほかに日記「断腸亭日乗」、小説「つゆのあとさき」など。
【名言】愛する事は憎む事を知る初めである。(「歓楽」より)
◆種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。
 荻原井泉水(せいせんすい、http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130616)に師事し,「層雲」に投句。大正14年熊本の報恩寺で出家,放浪の托鉢生活のなかで独特な自由律の俳句をつくる。のち山口県小郡(おごおり)に其中庵(ごちゅうあん)をむすぶが,遍歴をやめず昭和15年10月11日松山市一草庵で死去。本名は正一。句集に「草木塔(そうもくとう)」など。
【名言】歩くこと―自分の足で。作ること―自分の句を(「其中日記」より)
◆池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。第3次吉田内閣(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130922)の蔵相となり,ドッジ-ラインによる財政の均衡につとめた。27年通産相となるが失言問題で辞任。35〜39年首相をつとめ,高度経済成長政策や所得倍増計画を推進した。

<本の紹介>
・片山正通教授の「好きなこと」を「仕事」にしよう (CASA BOOKS) http://www.amazon.co.jp/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E9%80%9A%E6%95%99%E6%8E%88%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%8D%E3%82%92%E3%80%8C%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86-CASA-BOOKS-%E7%89%87%E5%B1%B1-%E6%AD%A3%E9%80%9A/dp/483872621X
・東大教授は『なぜかミスをしない人の思考法』の夢を見るか http://newvo.jp/338943/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E6%95%99%E6%8E%88%E3%81%AF%E3%80%8E%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%81%8B%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%80%9D%E8%80%83%E6%B3%95%E3%80%8F%E3%81%AE%E5%A4%A2%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%8B%3A%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97%E7%9A%84%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E6%84%9F%E6%83%B3%E6%96%87
小説吉田学校 http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%80%88%E7%AC%AC1%E9%83%A8%E3%80%89%E4%BF%9D%E5%AE%88%E6%9C%AC%E6%B5%81-%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%88%B8%E5%B7%9D-%E7%8C%AA%E4%BD%90%E6%AD%A6/dp/4313751211
小説吉田学校』は、第1次吉田内閣から鈴木善幸内閣までの保守政界の権力闘争史を描いた長編小説である。最初は雑誌連載で、その後は単行本の形で第7部までが発表され、1981年に角川文庫に収録されるとともに第8部が書き下ろされて完結した。2001年に学陽書房より〈人物文庫〉全8巻で再刊された。
・夢見通りの人々 http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%AE%AE%E6%9C%AC-%E8%BC%9D/dp/4101307059

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121203