なんとなく風邪気味?そういえば、「生誕110年 没後50年小津安二郎再び」

◆今日で610日目ブログ作成。今日も朝から会議に追われる。会うも二つの会議。本年度の営業成績をどう上げるのか。今月いっぱいに策定予定。厳しいなんて言っても仕方がない。また、この数日来月に向けて講演資料と原稿作成に追われる。何とか来月半ばぐらいには処理したい。今年は年末年始を返上し、自宅で作成予定である。そろそろ来年の年賀状作成と、これからの10カ年計画の草稿にも追われそう。職場でも、自宅でもパソコンに追われる日々である。なんとなく風邪気味であり、体調をくずさないよう早めに休んで行こう。

小津安二郎生誕110周年、Googleトップページが『東京物語』に。
 日本が世界に誇れる映画監督といえば誰だろうか。『七人の侍』の黒澤明? 『戦場のメリークリスマス』の大島渚?「世界のキタノ」こと北野武も評価が高い。しかしながら、何と言っても小津安二郎を外すことはできないだろう。海外の日本映画好きからは必ずと言っていいほど名前が上がる監督だ。今日はそんな小津安二郎の誕生日。これにあわせてGoogleトップページが彼の代表作『東京物語』のワンシーンへ変更されている。小津安二郎1903年12月12日、現在の東京都江東区に生まれた。 短期のあいだ小学校教員として勤めた後、1923年に松竹シネマへ入社。映画の世界へ入る。代表作『東京物語』ではローポジションを多様し、カメラを固定して人物を撮る独自の演出技法を用いた。説明的要素を限界までそぎ落とした台詞回しは、フランスをはじめ海外でも評価が高いという。ちなみにこの『東京物語』、あの大和田常務も自宅のリビングで観ていた。ドラマの最終回、「ラフィット」を経営する妻に100万円をねだられる例のシーンだ。お気づきだっただろうか? 芸の細かさに思わず感心してしまう。小津は1963年12月12日に亡くなった。したがって、今日は彼の没後50年でもある。小津を記念するイベントが各地で催されており、東京・京橋の「東京国立近代美術館フィルムセンター」では本日12日より『小津安二郎図像学』展が開催されている。

◆そういえば、今日は「漢字の日」。日本漢字能力検定協会(漢検)が1995(平成7)年に制定。「いい(1)じ(2)いち(1)じ(2)」(いい字1字)の語呂合せ。毎年、その年の世相を象徴する「今年を表現する漢字」を全国から募集し、この日に京都の清水寺で発表された。今年の漢字は「輪」2位は「楽」 五輪支援の輪。!京都市東山区清水寺で発表された今年の漢字は「輪」。2020年東京オリンピックの開催決定や富士山の世界遺産登録を日本全体が”輪”になって喜び、また自然災害への多くの支援の”輪”が広がったのが理由という。

(12月12日生まれの偉人)
◆小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年12月12日 - 1963年12月12日)は、日本の映画監督・脚本家である。「小津調」と称される独特の映像世界で無声映画からトーキー、白黒からカラー映画と世代を超えて優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。
 小津安二郎はすでに1930年代に芸術的な作品を撮る監督として評論家からの定評を得ていた。しかし、なかなか興業的にヒットする作品が出ないことが自身の悩みだったが、『戸田家の兄妹』(1941年)が初めて商業的に成功し、以降ヒット作を連発した。特に戦後になると年一作の寡作となって「巨匠」の名をほしいままにし、『東京物語』など原節子と組んだ一連の作品によって日本映画界の重鎮とみなされるようになった。しかし、映画研究者の佐藤忠男が「(1950年代後半)俳優たちにそのもっとも美しい姿を表出させる演出力において、この頃、小津安二郎は比類のない高さに達していた。年配の批評家たちや観客はそれを無条件に享受した。しかし若い批評家たちや観客は必ずしもそうではなかった。彼らには小津が苛烈な現実社会とは殆んど無縁なブルジョア的な趣味的な世界に遊んでいると見えた。」(佐藤忠男、『日本映画史』第3巻、岩波書店、1995年、p21)と述べているように、昭和30年代を過ぎると、特に若い世代から小津の作品の「古臭さ」に批判が行われるようになった。
 「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれた一群の新進監督たち(大島渚篠田正浩吉田喜重など)も小津を旧世代の監督の代表と見て批判的であった。吉田喜重は、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判したことがあった。すると1963年の松竹監督会新年会の宴席で、上座にいた小津が末席にいた吉田の前にやってきて黙って酒を注いだ。二人がほとんど言葉を交わすことなくひたすら酒を注ぎあったので、宴席は通夜のようになってしまった。そのうち酔いのまわった小津は吉田に、「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」といったという。後に吉田は小津の可愛がった女優岡田茉莉子と結婚し、死の床についていた小津のもとを訪ねた。吉田は小津の変わり果てた姿に言葉を失ったが、小津は帰り際の吉田に「映画はドラマだ、アクシデントではない」と口ずさむように言ったという。海外での評価については、小津の存命中に『東京物語』への英国サザーランド賞の授与(1959年)があったとはいえ、それほど知られているとはいえなかった。しかし、没後ヨーロッパを中心に小津作品への評価が高まり、その独特の映画スタイルが斬新なものとしてもてはやされるようになった。著名な映画監督、評論家たちも小津映画への賞賛を口にするようになった。現在では小津安二郎溝口健二黒澤明らと並んでもっとも国際的に支持される日本の映画監督の一人となっており、『東京物語』はヨーロッパで特に人気が高い。
 小津を敬愛し、あるいは小津からの影響を明言している作家は世界的にひろがる。ジャン=リュック・ゴダールは自身の作品である映画史において古今東西の膨大な監督に言及しているが、日本人監督としては溝口健二大島渚勅使河原宏と並んで小津安二郎の四名だけを取り上げている。アッバス・キアロスタミは『5 five 小津安二郎に捧げる』を、ヴィム・ヴェンダースは『東京画』を、侯孝賢は『珈琲時光』をそれぞれ小津に捧げる形で監督しており、さらにヴェンダースは代表作『ベルリン・天使の詩』のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」との一文を挿入している。また、ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では台詞の中に「トーキョー・ストーリー」などの小津作品の名称の競走馬が何気なく登場している。アキ・カウリスマキは「彼岸花」に登場している赤いやかんを小津作品に対する憧憬の象徴としており、自作品においてもしばしば赤い色のオブジェを意識的に登場させている。ジュゼッペ・トルナトーレの『みんな元気』は、老いた父親がイタリア各都市の子どもたちを訪ねる話で『東京物語』へのオマージュとなっている。日本でもかつては「古い」といわれた小津安二郎の作品群が、日本映画の一つの完成形として確固とした評価を得るようになった。特に70〜80年代に革新的な映画批評を展開していた蓮實重彦の小津に対する高い評価が広く影響を与えた。立教大学で蓮實の教えを受けた周防正行は小津へのオマージュ作品『変態家族 兄貴の嫁さん』を監督している。また漫画家の吉田戦車も1989年に小津へのオマージュ短篇「小春日和」(単行本『タイヤ』収録)を発表している。小津の生誕100周年にあたる2003年には各地で上映会などの記念イベントが催され、12月11日と12日の二日間には東京の有楽町朝日ホール小津安二郎生誕100年記念シンポジウム「OZU2003」が行われた。このシンポジウムは蓮實重彦山根貞男吉田喜重をコーディネーターとし、パネリストにペドロ・コスタ侯孝賢アッバス・キアロスタミ青山真治黒沢清是枝裕和淡島千景井上雪子岡田茉莉子香川京子らを招いて行われた。
 ・小津安二郎青春館(松阪市) http://welcome.kankomie.or.jp/japanese/search/spot.php?act=dtl&id=125
 ・生誕110年 没後50年 『小津安二郎図像学』展開催 http://news.ameba.jp/20131211-101/
 ・小津安二郎再び…没後50年 http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20131206-OYT8T00887.htm?cx_text=08&from=yoltop
◆三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年) - 2006年(平成18年))は、日本の実業家。料亭「濱田家」の二代目。明治座元代表取締役会長。東京大空襲でやけた明治座の再建にくわわり,25年取締役となる。32年失火で焼失した明治座を再建し,42年社長。平成5年会長。日本食品衛生協会理事長などをつとめた。

おとなり日記
・2013-12-12 清水焼松韻堂、はてなの茶碗 http://d.hatena.ne.jp/shoido319/20131212

<今日のトラックバックhttp://d.hatena.ne.jp/ks9215/20131129/p1

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121212/p1