「播磨灘物語」そして黒田官兵衛

織田信長豊臣秀吉に仕え、秀吉の謀将として活躍した黒田官兵衛は、12万石の大名として1587年に豊前中津城主となった。その黒田如水の生涯を描いたNHKドラマが年初から始まるということもあり、再び、約35年ぶりに司馬遼太郎の「播磨灘物語」を読み始めた。確かテレビでドラマ化され、垂水悟朗さんが主人公であったような記憶がする。今回、NHK大河ドラマ化に伴い、再び読み始めた。自分の記憶では、歴史小説の文庫本にこった青春時代の記憶である。
 この「播磨灘物語」は、司馬さんの本でもやや地味な人が主人公の黒田官兵衛について書かれているものである。黒田官兵衛という人は、豊臣秀吉が天下を取るまで、その参謀として仕えた人物である。毛利氏との決戦まで秀吉の参謀として仕え、秀吉が発する命令などは、ほとんどが官兵衛が秀吉に進言したものである。秀吉も、彼個人の力量も半端ではないが、それを補佐する人が、来れも日本史的レベルの高い人だった。それは竹中半兵衛であり、黒田官兵衛であったということで、これもラッキーだったとしか言いようがない。黒田官兵衛という人は、もともと播州の小寺氏という大名の家老だったんですが、これからの時代は織田家であるということで、織田家に接近し、小寺氏の担当として秀吉が信長から任され、秀吉と官兵衛の関係はここから始まる。この時から、毛利軍との対峙、信長暗殺による中国大返しまで秀吉の軍事的作戦はすべて黒田官兵衛から出てくる。
 その後明智光秀との天王山の戦い、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いなど、織田家の中での戦いになってからは、官兵衛は冷遇され、秀吉が天下をとったあとも、10万石程度しかもらえてなく、秀吉の周りもどうして10万石しか与えないのかということを聞いたら、秀吉は、官兵衛に100万石も与えたら、天下を取られてしまうと言ったそうである。こういう逸話は、まだあって、晩年の秀吉は座談が好きだったそうだが、その時にもし自分が死んだら誰が次の天下を取るかと側近に聞いた。これは戯言だから、言いたいことを言えと。そうすると側近は、家康とか、前田利家蒲生氏郷などの有名どころをあげたそうだ。ところが、秀吉は、いいやそうじゃないと。自分が死んだら、天下を取るのは黒田官兵衛だ。自分はどれだけ助けられたかしれないと言ったんだそうである。それを又聞きした官兵衛は、家督を長政に譲って、自分は黒田如水と称して隠居までしようとした。それは自分が秀吉に恐れられているということがわかったからである。
 また、関ヶ原でも、家康が上杉討伐で、北に向かうと、石田三成が大阪で家康討伐の軍を立ち上げるのだが、一方で官兵衛もこれが天下取りのラストチャンスだということで、九州に下向し、九州を席捲し、家康と雌雄を決しようとした。ところが、関ヶ原の合戦がたった一日で終わったために、すぐに九州軍は解散し、自分も世を捨てて隠居生活を始めるという一風変わった人で、あまり権力に執着する人ではなかったようである。「播磨灘物語司馬遼太郎黒田官兵衛の生涯)より
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(今日の出来ごと)
・東京都 猪瀬知事 5,000万円問題 “知事の説明 信用できず” 百条委員会 設置へ。総務委員会の伊藤興一議員は「知事の2転3転した答弁が信用できないという意見が出た、百条委員会の設立も視野に新た対応を考えたい」と話した。都議会は早ければ24日にも百条委員会を開き知事に出席を求める考え。
楽天 田中将大投手 “来季 大リーグ挑戦” 球団に伝える。
・江田氏の新党名 「結いの党」。

(12月17日生まれの偉人)
◆島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月17日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。
 長野県諏訪郡上諏訪村(諏訪市)に塚原浅茅・さいの4男として生まれる。長野尋常師範学校卒業。早くから文学に親しみ,小学校で教鞭をとるかたわら,新体詩や短歌を投稿するようになる。明治36(1903)年には岩本木外らと『比牟呂』を創刊,37年には伊藤左千夫門に入った。38年に太田水穂と合著で刊行した詩歌集『山上湖上』には彼の新体詩が収められている。41年『アララギ』が創刊されると『比牟呂』をこれに合併,以来赤彦は左千夫門下の有力歌人として活躍することとなる。大正2(1913)年,中村憲吉と共著の処女歌集『馬鈴薯の花』を出版,その後島木赤彦という筆名を使う。翌年上京,私立淑徳高女の講師をしながら『アララギ』の編集を担当,短歌に専念した。第2歌集『切火』(1915)のころには主情的な作品が多い。その後は『アララギ』の発行に全力を注ぎ,同人の実質的な指導者となっていく。そのなかで『アララギ』の写実的歌風は確立された。教育者であった赤彦の言説には教祖的な説得力があり,そのことが『アララギ』勢力を強化拡大すると同時に,反赤彦的な気分を育てることにもなったのだろう。「写生道」を唱え,歌作における「鍛錬道」を説いた彼は,『氷魚』(1920),『太虚集』(1924),『柿蔭集』(1926)で質実な写生と寂寥感を詠じている。
 <著作>『赤彦全集』全10巻
 ・諏訪湖博物館・赤彦美術館 http://www002.upp.so-net.ne.jp/dsmsh/
◆駒井健一郎(こまいけんいちろう、1900(明治33)年12月17日−1986(昭和61)年10月2日)は昭和時代の経営者。大正14年日立製作所にはいり,日立工場長などをへて昭和36年社長。技術開発に力をいれ,「重電の日立」を総合電機メーカーに発展させた。
◆野間 清治(のま せいじ、1878年12月17日 - 1938年10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。
◆有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は日本の政治家。農政研究者。元農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。
 日本中央競馬会第2代理事長に就任。有馬の尽力により1955年1月に施行された「日本中央競馬会の国庫納付金等の臨時特例に関する法律」(通称「有馬特例法」)は、売り上げ金の国庫への納付が免除された臨時競馬の施行を可能とする法律であり、臨時競馬の売上金を競馬場の施設などハード面の整備にあてることで中央競馬発展の基礎を築いた。また日本中央競馬会史上、もっともファンサービス拡充に努めた理事長として知られる。これには競馬は全くの門外漢だった有馬故の柔軟な発想があったからとされる。具体的にはPR機関中央競馬サービスセンターを創設し、日本短波放送によるレースの実況放送を開始し、競馬場内に託児所や遊園地を設置するなどのほか、1956年にプロ野球オールスターゲームのように人気投票で出走馬を選ぶレースでファンに喜んでもらおうと、中央競馬のオールスター戦を発案、競走名を「中山グランプリ」として創設した。なお、中山グランプリは第1回を盛況に開催したが、それから程なく有馬が急性肺炎にて逝去、その年の暮れに開催された第2回競走からは、これまでの様々な彼の功績を称え「有馬記念」と改称され施行されている。
◆夏目 雅子(なつめ まさこ、1957年12月17日 - 1985年9月11日)は、日本の女優である。
 夏目雅子は昭和60年2月、渋谷の西武劇場で『愚かな女』公演中に極度の疲労を訴えて倒れ、慶応病院に運び込まれた。彼女は「這ってでも舞台に戻る」と泣きさけんだが、医者は制止した。夏目雅子は、実はふだんから病身で、それまでも腎臓、甲状腺などを病み、撮影中もいろいろな薬を常用していた。彼女の美しい身体の内部には早くから死の影が這いまわっていたのである。そして最後に彼女をとらえたのは急性骨髄性白血病であった。ただし、彼女には極度の貧血と告げられた。
 夏目雅子はお嬢さん育ちながら仕事へのファイトに燃える女で、NHKの和田勉ディレクターが「亡くなったと聞いたとき、自殺ではないかと思った。それほど突っ張って生きていた」といった気性は病中も衰えず、入院中しきりに聞いたことは、どんな映画や舞台が流行り、女優のだれが人気を集めているかで、「私がいない間の映画はみんなコケればいいんだ」と冗談ながら半分本気でいい、全快後はミュージカルをやりたいと希望に燃えていた。病状もいちどは回復に向かい、一時は病院の廊下や屋上を散歩することもあったが、トクダネ写真をとろうとして白衣を着て医者に化けたカメラマンが潜入してくるに及んで、病室の中にとじこめられ、彼女についてどんなことが報道されるかわからないのでテレビや雑誌も禁じられた。やがて病状は8月ごろから悪化し、9月9日未明から危篤状態におちいり、11日肺炎を引き起こし、午前10時16分に息をひきとった。

(今日のトラックバック
http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20131215/p1

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121217/p2