今日の「官兵衛」は『死闘の果て』。そして「海賊と呼ばれた男」

◆今日の「官兵衛」は (参考http://blogs.dion.ne.jp/kazshin2007/archives/11432867.html
 永禄11年(1568年)、難攻不落な美濃・稲葉山城が陥落し、斎藤龍興の家臣だった竹中半兵衛は、斉藤家滅亡後近江で隠居生活を満喫していた。そんな半兵衛を藤吉郎(後の豊臣秀吉)は信長の家臣になるように説得に来る。稀代の天才軍師と言われただけあり、半兵衛も信長の半ば強引なやり方を怪しみ、首を縦にふることはしません。しかし、何度断られようとも乱世を終わらすためと必死に懇願する秀吉の姿勢に惹かれ、半兵衛は、秀吉の下で働き乱世を終わらすために建前的ではあるが、信長に仕えることを了承した。
 一方、信長は、稲葉山城を攻略し多くの軍勢を率いて次期将軍足利義昭を守護する大気名分を得て上洛したが、街はめっきり荒みきっていた。その様子を見た信長は、秀吉たちに京の街を立て直すように命じ、たった一ヶ月で立て直すのでした。この出来事は京の民を信長の見方にする程の出来事として話題になり、官兵衛の耳にも入るほどで、信長は、堺・大津・草津の3都市を直轄することになった。
 さて、官兵衛が暮らす播磨では、正室・光との間に跡継ぎの嫡男の松寿丸(後の長政)が誕生し祝賀ムードとなったが、浦上家襲撃を思い出させるように、祝賀ムードである最中に赤松家が襲撃を加えようとした。それも播磨最大の勢力別所家と手を組み襲撃しようとした。官兵衛達は赤松家と別所家の合流を阻止し、一度は撃退しますが、永禄12年(1569年)6月、再び赤松家が兵を挙げます。官兵衛は小寺家の居城である御着城・黒田家の居城である姫路城を護るため最前線で赤松家を迎え撃とうとした。しかし、戦略を練っている間に赤松家が奇襲。なんとか最前線で官兵衛たちが奮闘するものの、分が悪いと分かるやいなや小寺政職は一銭も交えることなく撤退し、官兵衛も愕然とします。さらにピンチに追い詰められた官兵衛ですが、周囲の意見を聞かず『黒田家まで引いてしまってはさらに赤松家攻め寄せられるだけ』とここで踏ん張ることを覚悟。そして、小寺家から赤松家に寝返った石川源吾が指揮する赤松軍の強烈な攻撃を一手に引き受けながら応戦するも、多勢に無勢ではどうすることも出来ず、深手を負い窮地に追い詰められる黒田家。さらに友氏・小兵衛も失い、失意のどん底まで陥ってしまう黒田家。そんな中一人冷静だったのが官兵衛でした。官兵衛は、黒田家を窮地に追い詰めるだけでなく、小寺家をも攻略間近と油断し一時休んでいる赤松家の隙を突いて、周囲の反対をよそに奇襲を仕掛けた。官兵衛の目論見は見事に当たり、意気揚々と酒を飲み交わし油断していた赤松政秀・石川源吾たちの隙を突き、相手を大混乱に陥れます。戦況は黒田家有利で進みますが、気取られないように背後に回りこんだ石川が官兵衛の背中にやりを繰り出しピンチに。そんな中、官兵衛の盾となり命を救ったのが手負い出会ったはずの側近・武兵衛。武兵衛は命がけで小兵衛の遺言である官兵衛のことを守ったのです。武兵衛は官兵衛を救ったことと引き換えに命を失います。 そのことに激昂した官兵衛は、強烈な石川の攻めを何とか凌ぎながら一瞬の隙を突いて反撃に転じ、石川源吾を切り倒すことに成功。指揮官を失った赤松家を退却させた。この戦いが、後に言う『青山の戦い』です。
 青山の戦い後、長年の因縁の相手である赤松家の君主・赤松政秀は程なくしてこの世を去ります。官兵衛たちはこの青山の戦いに勝利をしますが、勝利と引き換えに失ったものも計り知れません。友氏と小兵衛・武兵衛親子を始め多くの兵を亡くしました。それ故に官兵衛達の表情はかなり厳しい。本来ならばこの戦が終わったら武兵衛と結ばれるはずだったお国も、官兵衛に武兵衛の死を告げられ泣き崩れてしまう。官兵衛の帰りに『ご無事で何より』としか言葉を掛けることしかできない正室・光の表情をみても、いかに壮絶な戦いだったかは明白でした。そんな中、官兵衛は心を痛めながらも、様々な思いを振り切るかのように家臣団と共に勝どきを挙げるのでした。その後、姫路につかの間の平和の時が流れます。そして官兵衛に新たな家臣が加わりました。一人は、職隆の近習を務めてきた井上九郎右衛門、もう一人は善助が連れてきた槍の得意な太兵衛。後に官兵衛を支えていく『黒田二十四騎』と呼ばれる精鋭たちだった。

◆「海賊と呼ばれた男」(百田尚樹著・講談社
出光興産を創業した1885年(明治18年)生まれの出光佐三の95年の激動の人生を描いた小説。2012年7月に刊行されたこの小説は、本屋大賞を受賞した。
これを読んでいて、「太平洋戦争後の日本人のこと」とか、「人が企業で働くということ」について、あれこれ考えずにはいられませんでした。太平洋戦争後、敗戦国となった日本は、すっかり「アメリカの言いなり」になっていて、それがずっと今まで続いていると思い込んでいたのですが、僕が生まれる前、昭和20〜30年代の日本人には、こんな「気骨のある人」がいたのだなあ、と。戦争によって、力差を見せつけられたあとでも、欧米から敵視されているイランから石油を輸入しようとした出光の行為に対して、快哉を叫ぶくらいの「意地」が、当時の日本人にはあったようだ。
いま、同じようなことを日本の会社がやったら、「国益に反する」と、日本中から大きなバッシングを受けるのではないでしょうか。日本人が骨抜きにされたのは「戦争に負けたから」だけではなくて、「戦争に負けたあと、自分たちで奴隷根性を植え付けていった」のではないか、と考えさせられた。
 出光は、戦後、石油を扱えない時期も「社員は家族だ」という佐三さんの考えのもとに、社員を「ひとりも会社側からはクビにすることなく」経営を続けてきた。もちろん、仕事もないのに社員を養っていくのは困難であり、ラジオの修理や「旧海軍の残油浚い」というような仕事を請負いながら、なんとか生き残りをはかっていくが、この「旧海軍のタンクの底にわずかに残っていた、泥混じりの残油さらい」という仕事などは、読んでいると、まさに「3K(きつい、きたない、きけん)労働」であった。きついわりには、儲かるわけでもないし、今後の確固たる保証があるわけでもない。イランへのタンカーの派遣は、この本のクライマックスだが、会社にとっても、タンカーを運航した人たちにとっても、かなり危険な賭けでしたし。結果によっては、「歴史的な愚行」として語り継がれていたかもしれない。
ところが、出光の社員たちは、こういう「3K労働」を活き活きとやっていた。「仕事がない時代」であり、「食べさせてくれている会社」への恩返し、という気持ちはあるのでしょうが、それにしても、いまの時代との「働くことへのモチベーション」の違いには驚かされる。「この会社を、そして日本を復興していくのだ」という意思の強さにも驚かされる。
もちろん、途中でイヤになってやめてしまった人たちも少なからずいたようである。ずっとこの会社に残り、会社を支えてきた人たちは、みんなキツイ仕事もしているだろうし、休みもそんなになかったようだが、すごく充実した人生を送ったようにみえる。仕事の内容とか労働条件を考えれば、いまの「ブラック企業」も裸足で逃げ出すくらいなのに、そこで働いている人たちは、幸せそうにみえる。出光佐三という、「異端の起業家」の物語であるのと同時に、「働く」ということについて、問いかけてくる物語でもある、まさに、「やりがい」があれば、どんなにキツイ仕事でも、人は喜んで働けるのではないか。今、失われてしまったのは、その「やりがい」ではないのか。「こういう人の元で、働いてみたい」
物語のなかでも、そういう人って、そんなに出会わないものだが、この小説には、そう感じさせる「店主」がいる。「ガソリンなんて、どこの会社も同じようなもんだろ」と考えていたけれど、これを読んだら、出光のスタンドで給油しようかなって思う。
 このように、出光佐三というカリスマがそう生きてきたのだろうか。様々な出会いがあり、リーダーとしてのすばらしさをみる、人との出会い(日田重太郎)、石油という魔物の商品に着目したこと、戦争など激動の歴史の中で翻弄される佐三、何度も訪れる危機で出会う僥倖、アメリカと日本官僚と同業者とのえんえんたる戦い、家族と呼ぶ社員たちの奮闘、企業よりも日本を優先する思想、お世話になった人たちへの義理堅さ、危機に際し原則と方針を明確に指し示すリーダーシップ、禅僧・仙がいの絵との遭遇と蒐集(月は悟り、指は経典)、丁稚奉公の主人や神戸高商校長の影響。このような人物が日本の石油業界にいたことの幸運を感じずにはられない物語だった。
 NHKの「プロジェクトX」を大きなスケールとして実行した男の物語であり、血湧き肉躍る書きっぷりは素晴らしい。このような真の日本人が様々な分野と業界にいたのだろう。その日本人が礎となって今日の日本がある。なぜ今、受けているのだろうか。「日本人」というキーワードが、じわじわと時代に沁み出てきているのではないか。混迷する時代を生きる指針を真の日本人に求めているのではないだろうか。そうやって眺めてみると、テレビ中のでも昨年話題となった「半沢直樹」「あまちゃん」などもそういった流れの中にあるようにみえる。
•黄金の奴隷たる勿れ
•愚痴をやめよ。ただちに建設にかかれ。
•士魂商才
•自分で工夫して答え見つけることが大切したい。それでこそ、きっちりとした人間になる。
•誘惑に迷わず、妥協を排し、人間尊重の信念を貫きとおした五十年であった。


<今日の出来事>
・「ローザンヌ国際バレエ」日本の高校生が1位2位独占。ローザンヌ国際バレエで日本の高校生が1位と2位を独占した。優勝した二山治雄さんは、とてもうれしくて何を言ったらいいか分からないとコメント。母の晶子さんは、自分たちも手をたたいて喜んだと語った。また、2位になったのは前田紗江さん。6位には加藤三希央さんが入賞した。
松井秀喜 臨時コーチ 巨人坂本に110球の熱投。巨人春季キャンプ2日目では、松井秀喜臨時コーチが坂本勇人のバッティングピッチャーを務めた。
・沙羅、サラ超えシーズン最多10勝!荻原健司に並ぶ日本人W杯最多19勝。

<60年前の今日>
・1954年のこの日、戦後GHQにより禁止されていた国際航空業務が再開された。1番機は日本航空の東京発ホノルル経由サンフランシスコ行で、38席のうち14人が招待客で、一般の乗客は5人だけだった。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130202/p1