豪雪の新潟県南魚沼市。そしてあさって3年 各地で追悼行事

新潟県南魚沼市は、1メートル以上の雪が積もる豪雪地帯。積もる雪は家を覆うほど。この地方では、雪下ろしや雪かきを、「雪ほり」というそうだ。何軒かの家では、木の板にろうを塗った「雪とよ」で、雪を次々に滑らせ屋根の下に落としていく。この「雪とよ」は、明治の頃から使われている。屋根の端までいかずに、雪を下ろす知恵が、大切に受け継がれている。そうした深い雪が生む湿気の中で織られるのが、「越後上布」。越後の女性が継いできた伝統の麻織物である。かつて男たちが出稼ぎに行った冬、内職をして家を守ってきた。材料の麻糸をつなぐ「苧績み」(おうみ)をするのは女性。上布の美しさにひかれ、移住して機に向かう人も。傍らには、機の神が宿るという「巻機山」(まきはたやま)がそびえます。越後上布を漂白する「雪さらし」や、江戸時代の書物「北越雪譜」(ほくえつせっぷ)にもつづられた「雪ほり」などの風景と共に、雪国の暮らしの輝きに触れる。

◆<今日の出来事>
 東日本大震災から2014年3月11日で3年になる。被災地では追悼式などが開かれている。岩手陸前高田では市長が「万感胸に迫るものを禁じ得ない」と挨拶した。宮城気仙沼では津波に影響を受けた魚市場の屋上で慰霊祭が行われた。福島南相馬では慰霊のため全国から寄せられた4500羽の折り鶴と共に法要が行われ、参加した人は折り鶴を海に流し犠牲者を悼んだ。いち早い復興を願う動は被災地以外でも行われ、長崎では高校生が応援メッセージを書くよう観光客に呼びかけた。被災地の思いが書かれたメッセージは木が描かれたボードに貼られ、満開の花が咲いたようになった。アメリカロサンゼルスの警察で東日本大震災の追悼式典が行われた。そこで福島県の出席者が「地震津波原発事故で200万人の平和な日常が破壊された」と語った。原発事故からも3年。国会周辺では原発に反対する人達からデモ行進が行われ再稼働反対を訴えた。追悼の催しは夕方になっても続いている。宮城名取では全国から届いた復興への願いが込められた2500個の灯ろうに一斉に火がともされた。天の川の形に並べられた灯ろうの光を見ながら、多くの人が亡くなった人を偲んだ。

◆ニュースに見る震災検証
① 2014年3月9日放送 7:00 - 7:45 NHK総合NHKニュース おはよう日本
・”ヘリ出動できず” いったい何が
東日本大震災自衛隊や警察、消防、海上保安庁などのヘリコプターによって史上空前の救出活動が行われた。少なくとも4700人が命を救われたとみられている。岩手・宮城・福島に派遣された防災ヘリコプター58機は82日間で1498人を救い出した。しかしそんな命綱とも呼べるヘリコプターが岩手県の拠点、花巻空港では救助に行けない状態に陥っていた。出動要請がない背景には何が起こっていたのか取材で明らかになってきた。
・孤立した避難所 救助を待っていたのに…
震災発生から数日間、被災した住民は必死に救助を待ち続けていた。体育館には200人以上が避難しており、電機が使えない状況で近所から集めてきた石油ストーブでは寒さを凌ぐには十分ではなかった。中には容体の悪い高齢者もおり、すぐにでも手当を要する状態だった。しかし避難所に医師はおらず、薬や医療設備もない状況下で十分な手当てはできなかった。救助を要請しようにも携帯電話が通じず、ほかに通信手段もなかった。
・被災地に集まったヘリ なぜ出動できなかった
岩手県災害対策本部の中心となった総合防災室でヘリ出動の指示は出されていた。各地との通信手段が断絶され、ようやく繋がった電話で得られた数少ない情報を元に指示を出すしかなく「どう対処すればよいのか手立てがなかった」と話した。一方の花巻空港では隊員たちが焦りを感じて出動要請を待っていた。「出動しなくていいのか。困っている人がいるのではないか」と気が気でなかったと当時を振り返った。浪板地区の避難所では震災発生から3日後も救助を待ち続けていた。自分たちで何とかするほかないと避難していた人たちは周辺の瓦礫を取り除き、車で移動できるようにした。容体が悪化していた高齢の女性も14日の朝、ようやく隣の秋田県の病院へ搬送することが出来た。しかし感染症にかかっていたことが原因で3週間後に亡くなった。治療にあたった医師は手当が早ければ助かったかもしれないと話した。
・あの時のヘリの教訓 次の災害に生かせ
救助に行く手段はあっても、救助に繋がる情報がないという状況を解決する方法はあるのか。待機が続いた花巻空港の隊長はそのヒントを書き留めていた。被災地区ごとに情報収集のヘリを割り当てるなど、待ちに徹するのではなく自ら情報収集にあたり救助につなげようというものだった。この提案を受けて5機のヘリコプターが情報収集活動にあたり、上空から救助をも求める人達を探し始めた。隊長はこうした活動を早い段階から繰り返していればと振り返った。
・スタジオトーク
ヘリコプターをより有効に活用できればもっと多くの人が救えたのではないか。今後起こりうる巨大災害に対応する上で重要な教訓となった。岩手県はヘリコプターの運用調整に特化した専門部署を設けるなど先進的な地域として知られていたが、そんな岩手ですら巨大災害時にあっては混乱した状況下に陥ってしまったことは重く受け止めなければならない。情報収集にヘリ自らあたる行動は評価できるものの、それによって起こりうる混乱の発生など課題はまだまだあると指摘。今後巨大災害が予想される地域におけるヘリコプターの運用整備が早急に求められている。
②2014年3月9日放送 8:00 - 9:54 TBS「サンデーモーニング
<特集>東日本大震災から3年 “いま わかったこと”・・・東日本大震災 あの日から3年
・まもなく東日本大震災から3年を迎えるにあたり、今日はこれまでに何が変わって何が変わっていないのかを伝えた。田老駅に到着し、ホームから当時の田老地区での被害状況を伝えた。宮城・気仙沼市仙台市、岩手・釜石市地震当時の映像や巨大津波の映像が流れた。大津波は次々と街を飲み込み、やがて海上火災を引き起こし、気仙沼湾は炎で埋めつくされた。死者・行方不明者は1万8520人。福島第一原発メルトダウン。事故は最悪レベルの7で放射能の影響はいまだ消えず、14万人が故郷に戻れぬままとなっている。関口宏が見た福島第一原発は、がれきがそのままに残っていた。岩手・宮古市の田老地区は、津波が防潮堤を破壊し、多くの命が失われた。今日は、この田老地区から「東日本大震災から3年…“いま わかったこと”を放送した。
津波が襲った町 大震災から3年…
岩手・宮古市の田老地区から中継。この地区には巨大防潮堤があり震災当時も多くの人が逃げ込んだが、津波は防潮堤を越えたという。その堤防が壊れてしまっている様子を伝えた。更に高くした堤防を作り直す予定だが住居は作ることが出来ないため漁業関係の作業所などが作られる予定だという。仙台市盛岡市福島市、赤坂の地震当時の映像から、なぜ巨大地震は起きたのか、各地の揺れの分析から、そのメカニズムが明らかになってきた。仙台では、揺れ始めから30秒で一度目の大きな揺れが来て、その40秒後に一旦治まりそうになったところで再び大きな揺れが。福島市では、大きい揺れが長く続いた。各地の波形を見てみると、大きな地震が同時に3つきていることがわかった。
・震災3年で分かった“地震” プレート境界の滑りやすい粘土層
同時に起こった3つの揺れ。地球深部探査船「ちきゅう」を使い、震源域の海底約850mを掘り進めた結果、東日本大震災を引き起こした断層を取り出すことに成功した。取り出した断層部分は地震の摩擦熱で周囲より0.31度高くなっており、震災で動いた断層と断定した。さらに、スメクタイトを大量に含む粘土層であることがわかった。筑波大学の氏家恒太郎准教授は、スメクタイトは摩擦が低い物質で、地震の際に大きく滑らせる方向に働いてしまうと話した。
・震災3年で分かった“地震” 相次いだ天井の落下
東日本大震災で、津波による大きな被害に対し、揺れによる被害は少なかった。これについて建築研究所の福山洋グループ長は、「大きく損傷したり倒壊がみられたのは、今の耐震基準で作られたものより古い建物に限られている」と話している。阪神・淡路大震災をきっかけに、建物の耐震化が進んだことも、被害を減らした理由だった。しかし、一方で天井の落下が相次いだ。東京の九段会館では落ちた天井の下敷きになり2人が死亡した。また、天井裏の配管やエアコンの落下も相次ぎ、宮城・利府町では配管の落下により5歳の男児が死亡した。さらに、エスカレーターも接続部分が外れ落下する事故が起きている。国交省は、吊り天井とエスカレーターに4月から耐震化を義務付けるが、配管などについては検討段階で明確な安全基準がない。
・震災3年で分かった“地震” 今も活発に続く地震活動
福島・いわき市では地震後活発になった地震で新たな断層ができた。東日本大震災により、日本列島が最大5.3m、大きく東にずれたことがわかった。その結果日本の地下は不安定になっている。東北大学の遠田晋次教授は、関東では現在、3.11の前の2〜3倍のペースで地震が起きているため、大きな地震が以前よりも2〜3倍起こりやすい状況で、完全に元に戻るには数十年かかるのではと話した。2004年にインドネシアで起きたスマトラ島沖地震のあと、マグニチュード8クラスの余震が相次いだ。日本三代実録には、869年の貞観地震と、その後の大きな災害について記されている。
・M8クラスの余震は来るのか?
マグニチュード9クラスの地震のあとは、マグニチュード8クラスの余震が起こることがわかっている。日本が参考にすべきなのは、スマトラ島沖地震。日本では今のところ起きてはいないが、今後来ることを考えてえおくべきである。建物の被害はそれほど大きくなく、津波での被害が大きかったことについて涌井雅之は、「建物は今後長周期地震動についての対策が課題」とコメントした。安田菜津紀はフィリピンに当時いたが、陸前高田にいた義母が津波で亡くなったと話した。
・震災3年で分かった“津波” 2つの地震が連動した猛威
岩手・宮古市田老地区を襲った巨大津波。過去にも津波が押し寄せてきた田老地区では、全長2.4km、高さ10mの防潮堤が町を取り囲んでおり、津波に対する住民の意識も高かった。しかし津波は巨大な防潮堤を乗り越え、田老地区の死者・行方不明者は181人となった。住民が逃げ遅れた理由の1つは、気象庁が最初に岩手県に出した大津波警報が3mだったこと。それからおよそ40分後に10m以上の警報を出したが、田老地区にはそれより前に防潮堤を超える津波が到達していた。岩手・宮城・福島では、死者の約9割が津波による溺死だった。大船渡市の津波は観測史上最大の40.1m。東日本大震災では、小さな津波が起こるプレート間地震と、大きな津波が起こる津波地震が同時に起き、陸地に近づくにつれ2つの津波が重なり、大きな津波となってしまった。専門家の間では、こうした2つの異なる地震が起こることは想定されていなかった。宮城・女川町では4階建て鉄筋コンクリートのビルが70m押し流された。さらに引き波の力の強さにより倒されたビルもあった。仙台市若林区の浪分神社の名前は津波に由来する。政府や専門家は、今後30年以内に70%の確率で起こるとされる南海トラフ巨大地震の被害予測を見直し、従来の想定をはるかに超える甚大な被害が見えてきた。
・震災3年で分かった“津波” 見直しが必要となった被害予想
宮城・気仙沼市など多くの地域に未曾有の被害をもたらした大津波。この3年間でわかったことは、津波被害の予測を大きく見直す必要があることだった。南海トラフ巨大地震の最悪の状況を予測したシミュレーションでは、死者・行方不明者は32万3000人、経済損失は220兆円を超える。また、仙台空港名取市などでは海から5kmのところまで津波が到達し、高台が少ない地域では逃げ場がない事も明らかになった。この教訓から、神奈川・藤沢市津波避難タワーや静岡・袋井市の命山といったインフラ整備が各地で薦められている。さらに、津波が川を逆流するなどし、内陸でも津波の被害を受けることがわかった。海のない埼玉県でも、荒川を津波が登ってきた場合を想定するなど、対策を進めている。茨城・鹿嶋市沖では、津波観測網の設置が行われている。その一方で、人々の津波に対する意識も忘れてはならない。
・巨大津波 なぜ被害は拡大?
岩手・宮古市田老地区から中継でトーク安田菜津紀は、どれだけ迅速に避難を促せるまちを築いていく必要があるとコメントした。涌井雅之は、防災よりも減災の街をどう築けるかのほうが重要だと述べた。田老地区の昭和9年に建てられた石碑には、「大地震の後には津波が来る」「地震があったらここへ来て一時間我慢せ」「津波に襲われたら何処でもこのくらいの高所へ逃げろ」「遠くへ逃げては津波に追いつかれる」「常に近くの高い所を用意しておけ」などと書かれていた。
原発浪江町
唐橋ユミのレポートで、浪江町あたりは3年前のまま、防潮堤も破壊されたままになっている。背後には事故を起こした原発の排気筒が見えている。現在も町全体が避難区域に指定されており、今回は特別な許可を得て中継している。ゲストの九州大学・工藤和彦特任教授は「原発事故の被害と津波の被害を同時に受けているこの地区の被害は深刻なものだと感じた」と話した。
・震災3年で分かった“原発” 深刻な汚染水問題
福島第一原発は、未曾有の事故から3年で姿が大きく変わった。去年11月から使用済み核燃料の取り出し作業が行われている4号機の地下・トーラス室と呼ばれる場所にはがれきの山が。雑然とした作業場に、原発事故の爪痕は今でも生々しく残っていた。さらに地下へ進むと、汚染水がたまったままの状態に。事故前、想定されていなかった汚染水問題は今最大の問題となっている。兆候濃度汚染水の海洋流出が初めてわかったのは、2011年4月1日。約520トンの汚染水には、4700兆ベクレルの放射性物質が含まれていた。その後もタンクの欠陥や人為的ミスによる汚染水漏れ事故が相次いだ。事故直後から海洋汚染について研究してきた東京海洋大学の神田教授は、流出は今も続いているという。福島沿岸では、一部の試験操業を除いて漁は自粛されており、ほとんどの魚の放射線量は基準値を下回っているが、まれに大きく上回った魚が確認される。
東日本大震災から3年 “いま わかったこと”
震災3年で分かった“原発メルトダウンを招いた要因
福島第一原発が深刻な事態に陥った最大の原因は、全交流電源の喪失。元所長の二見常夫さんは、外部電源が強いと言われていた福島第一原発の外部送電ライン全てが地震により崩壊してしまったので、複数のバックアップが1つの事象で全滅するという落とし穴に「一部の送電線を地下ケーブルにするなど、多様化の観点が必要」と話した。さらに、非常用電源が津波を想定した場所に設置されていなかったために水没してしまったため、壊滅状態となった。事故当初、東京電力や政府は「想定外」を繰り返したが、津波による電源喪失や炉心損傷は事故前から指摘されていた。原子力安全機構(JNES)は2007年以降、「津波による炉心損傷」を指摘し、15m超えの津波では炉心損傷はほぼ100%と発表していた。しかし、その指摘は生かされなかった。北海道大学の奈良林教授は、住民の不安感情・原発訴訟への不安から、「安全神話」を疑わせる過酷事故対策にブレーキがかけられたのではと分析する。
・大震災から3年… 福島第一原発
福島第一原発を取材した関口宏は、「まだまだ悪いことが出尽くしていないと感じた」と述べた。福島・浪江町の請戸漁港から中継で工藤教授は、この3年でわかったことについて、「1つは汚染水漏れが深刻であるということ。もう1つは、初めて複数の原子炉が同時に炉心損傷が起きたということ。複数あることがメリットにならなかったことが大きな問題だとわかった」と述べた。また、廃炉については「廃炉の作業に入る前に、地下水を止めること、あるいは注いでいる水が漏れるのを止める対策が必要」と話した。今後の原発については「危険性が0というのは不可能。ただし、0に限りなく近づける努力が大事」と述べた。岸井成格は、電源が失われた原因について津波ではなく地震であると元所長が言っていることについて話し、工藤教授は、「外部電源が喪失したのは地震と思われるが、非常電源が失われたのは津波による水没」と述べた。
・震災3年で分かった“行政” 復興が遅れた背景は…
宮城・名取市閖上地区は、津波で壊滅的被害を受けた。ここは県内で最も早く再建計画が策定された場所の1つだが、今も更地が広がったまま。ここまで復興が遅れた背景には何があったのだろうか。
・震災3年で分かった“行政” 復興阻む「住民の合意」
東日本大震災直後、国は20以上もの「対策本部」や「会議」を設置したが、 しかし自民党小野寺五典議員は、菅直人首相(当時)に出たことがあるかと国会で質問した。菅首相は「それぞれの担当大臣中心に運営をしていただいている」と答えるのみに留めたが、中には一度も開かれなかった会議もあった。こうした会議の乱立に、行政の窓口一本化を望む声が聞かれる中、2012年にようやく復興庁が発足。復興が思うように進まない理由の1つに、住民の合意形成の難しさがあった。名取市閖上地区でも、住民たちの思いは決して一枚岩ではない。さらに、復興交付金の支給には、堤防のかさ上げには1ヘクタールあたり40人が住むことなど様々な要件があり、国の制度も大きな壁になっている。佐々木一十郎市長もこうした制度への不満を口にした。今回復興交付金の支給対象となった事業は40。初代復興庁の平野達男氏は、「ある一定の線は引かざるを得ない」と述べた。仙台弁護士会の弁護士は、こうした制度の壁の背景に縦割り行政があると指摘した。
・震災3年で分かった“行政” 不足していた「政治」の力
法政大学の五十嵐教授は、こうした制度の壁を乗り越えるためには、政治のリーダーシップが必要だと話した。閖上地区の住民は「何も変わらないのが悔しい」と話した。
・残る震災の爪痕 復興が進まないワケ
復興交付金は40の事業のどれかに当てはまると認められなければ支給されず、当てはまらなければ計画の見直しや諦めざるを得ないというケースも出ている。この件について涌井雅之や岸井成格は縦割り行政の弊害だと述べた。安田菜津紀は、支援するために被災地に住みたい人がいても空いている仮設住宅に入れないなどの例を挙げ、制度の壁が復興の担い手を遠ざけていると話した。復興の進捗状況をフリップで紹介し、防災集団移転は5%、土地区画整理は0%、災害公営住宅は2%が完了だと伝えた。
原発事故からの復興 その道のりは…
福島・浪江町の請戸漁港から唐橋ユミが中継。浪江町の住民へ避難指示解除後の帰還意向について聞いたところ、戻りたいと答えたのは18.8%。判断がつかないと答えたのは37.5%。工藤教授はこれからの課題について「これまで原子力発電の安全性に過信があり、重大な事故の際の対策がされていなかった。これからもし帰宅について取り組むのであれば、国や行政が正確な情報を発信して、できるだけきめ細かい解説を行うことが大事」と述べた。岸井成格は「日本人として、原発をどうするかの決断を迫られている。いろいろ議論はあると思うが方向は決めるべき」と話した。
東日本大震災 あの日から3年…
岩手・宮古市・田老地区から中継。涌井雅之は、「3.11は日本の基準点にすべき。自分たちの生き方や国の有り様を自然の中でどう共生していくかの基準点にしていかなければ、犠牲者の人たちに対して生きている我々がきちんと答えを出せない」とコメント。安田菜津紀は、「津波てんでんこという言葉を教えてもらい、家族それぞれへの信頼に裏打ちされた言葉だと思った。私も家族で話し合いをしているし、自分自身や家族の命をどう守るかは普段からのコミュニケーションにかかっているのでは」とコメント。岸井成格は、「安全神話と経済成長神話が崩れたのが大きい。そういうものから決別しないとだめだと教えてくれている」とコメントした。
東日本大震災から3年、かつて岩手県の寺で住職を務めた瀬戸内寂聴は、「人間はおごりすぎていた。人間の想定するもの、想像するものなんてたかが知れている。もっと謙虚になるべき」と述べた。岩手・宮古市や宮城・名取市の映像とともに被災地の人々のコメントが流れた。この3年を振り返って、東京大学地震研究所の纐纈一起教授は「科学の力には限界がある」、東北大学の今村文彦教授は「我々人間自体を知らなければならない」、福島第一原発の二見元所長は、「こういう結果になり、ものすごく申し訳ない」とそれぞれコメントした。JT生命誌研究館中村桂子館長は、「現代文明社会は自然の中できちっと生きてこなかったんじゃないかと思い知らされた」と話した。

・…・…・…・…・…・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆朝から農業。畝作りに追われる。種イモを植える。夕方自宅に戻る。今日の官兵衛「毛利襲来」、これから佳境に。

<今日のトラックバック
http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120116/1326717792/p1
http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120311/p2
http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130311/p1

<本の紹介>
・6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録 角川SSC新書 (角川SSC新書 130)http://d.hatena.ne.jp/asin/4047315532
南相馬10日間の救命医療―津波原発災害と闘った医師の記録http://d.hatena.ne.jp/asin/4788711699
・証言記録 東日本大震災 第三回 福島県南相馬市 ~原発危機 翻弄された住民~ [DVD] http://d.hatena.ne.jp/asin/B00ADXH5VQ

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130308/p1 昨年に比べ、寒い一日でした。まだまだ今年は例年に比べ、寒い日が続く。でも、花粉症の季節到来。