新田次郎記念館。本因坊秀策生誕185周年。“全国が梅雨入り”。

新田次郎記念館 http://www.kamisuwa-shinyu.com/blog/?p=1589 http://www.city.suwa.lg.jp/www/info/detail.jsp?id=660
 諏訪市図書館の2階にある新田次郎コーナー。新田次郎(1912−1980年)は、ペンネームだが、この人の生まれは諏訪町大字上諏訪角間新田で生まれたことと、次男坊であったことを合わせて、新田(シンデン)をニッタと読ませて、新田次郎になった。ペンネームのつけかたの一つの典型である。自身の家の屋号を用いた堺屋太一、出身地の名前をつけた石ノ森章太郎など、こういうつけ方は多い。新田次郎の本名は藤原寛人。18歳で無線電信講習所(現在の電通大)に入り、卒業後20歳で中央気象台(気象庁)に入台する。そして直後の昭和7年から12年まで富士山観測所で仕事をする。31歳、満州国中央気象台課長となるが終戦ソ連軍の捕虜となる。妻ていは、3人の子供を連れて帰国。解放された後、34歳で気象台に復職するが、39歳の時に妻が「流れる星は生きている」という本を書きベストセラーになる。この刺激が新田次郎を誕生させる。「強力伝」を書いたが、これが43歳で出版され、翌年にいきなり直木賞を受賞する。その後、「蒼氷」など山岳小説、推理小説を書いていく。51歳で測器課長に昇進し、富士山気象レーダーの建設の大役を成功させる。
 54歳で気象台を退職し、筆一本の生活に入り、「八甲田山死の彷徨」、「武田信玄」など多くの名作を生む。退職後13年後の67歳のときに心筋梗塞で逝去。山に題材を取った小説が多い新田次郎は、山男だった。その遺品が展示されている。姿の美しいピッケル、高級な登山靴、品のいい帽子、そして登山服を注文するための詳細なスケッチなどが目に入る。随分といい品物を持っていたのだなあと思っていたら、妻の藤原ていが、「新田さんは、平常の服装はむとんじゃくであったが、山の装備は最上のものを用いた」と書いている文章を添えてあったので納得した。
 本名の運輸技官・藤原寛人の名前で、30年勤続の表彰状をもらっている。息子の藤原正彦のエッセイを読むと、直接はもらさなかったらしいが大学出の学士との待遇の差に心を傷つけられていたようだが、厳しい公の勤務の傍ら小説を書くというスタイルも長く続けたことに尊敬の念を覚える。

本因坊秀策生誕185周年。本因坊秀策は1829年尾道市生まれ。1837年に本因坊丈和に弟子入りし、1839年には初段の免状を得る。さらに1846年には井上幻庵因碩と対局し、有名な「耳赤の一局」もこの年に行われた。1848年、14世本因坊跡目を継承。翌年の1849年には徳川将軍の御前で対局する御城碁に出仕し、12年間で19連勝という大記録を打ち立てた。これらの実績により、本因坊秀策は現代においても史上最強の棋士と呼ばれることが多い。1862年コレラにより死去。

本因坊秀策記念館 http://honinbo.shusaku.in/shusaku.html
 本因坊秀策は、幕末に活躍し、将軍の前での対局「御城碁」で13年間、19連勝という大記録を成し遂げた史上最強の棋士である。記念館では、碁聖とまで称された秀策の碁の技だけでなく、秀策の生き方や碁に対する心構えなどにも触れ、その温厚な人柄「人間秀策」を発見でき、秀策ゆかりの品々と合わせて、囲碁の歴史や文化を堪能できる。 秀策を育てた因島外浦(とのうら)町を散策すれば、秀策が故郷を偲びながら旅立った海を臨むことができる、そして、本館の正面山手には、お参りすると棋力が上達するといわれている秀策のお墓がある。

◆ “全国が梅雨入り”。気象庁は東北北部が梅雨入りしたと発表。今後の見通しとして、梅雨明けは遅くなると予想される。理由はエルニーニョ現象が発生する可能性が高いためだ。環境省が今世紀末の気象予測を発表。地球温暖化対策がこのまま強化されないと、平均気温が4.4度上昇すると予想。地球温暖化問題に詳しい国立環境研究所の住明正理事長は、このままいけば春と秋が短くなるという。また熱中症になる人の増加、ゲリラ豪雨など災害などが懸念される。あすにかけて、関東では大雨が予想される。

◆観光ホスピタリティシンポジウム:寺島実郎氏講演から。
 ・観光とは「国の光を観ること」(易経)。
 ・人間は移動(旅)によって賢くなる。6万年前から始まった人類のグレートジャーニー。3万年前に日本列島に到達。進化は驚きから。(人類も、個人も 同じ。人事異動、結婚、旅行、出会い、、、)
 ・グローバル・ヒストリー。歴史教育の間違いは世界史と日本史という科目と、近代を教えていないこと。中韓の学生にかなわない。17世紀オランダ論と メルカトール図法。
 ・グローカリティ:武相(武蔵の国と相模の国)を大きく多摩と呼んでいる。初代神奈川県令は陸奥宗光朝鮮通信使東海道を通った。徳川家康は敵を 活かす人だった。大きくなっていく人はそうだ。武田は八王子千人同心。毛利は浦賀の水軍。
 ・観光:日本人は何でメシを食うかという大問題。観光というテーマにグランドデザインをもって立ち向かうべき。
 ・日本は工業生産力モデルできた。1966年から1981年までんに1人あたりGDPは1000ドルから1万ドル。黄金の70年代。食糧自給率は73%から現在は39%。 第一次産業従事者は25%から4%へ。自動車産業の次のプロダクトサイクルは何か。
 ・シンガポールモデル(5.3万ドル)とデンマークモデル(5.8万ドル)。
 ・中型ジェット旅客機(MRJ)の国産化プロジェクト。大観光時代へ向けて市場が大きい。
 ・中央リニア新幹線圏央道の開通と相模原IC。環状道路が5年以内に3本。山梨県の立地。
 ・日本を1人あたりGDP5万ドルゾーンにどうやってもっていくか。サービス産業の高度化。ハイエンドなリピーター。
 ・日本人の貧困化の進行。500万人がサービス業へ。年収は100万以上ダウン。6000万人が働いていない。働く人の34%が年収200万以下。格差と貧困の進 行。

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