民権の森、石阪昌孝の墓、絹の道資料館

◆野津田神社、町田民権の森、ボタン園、薬師池公園の自由民権関連を巡る。
 まずは野津田神社。いつ頃できたのかは不詳。元禄13年(1700)湯花の神事について「野津田村年代記」に記されていて亨保年間には「五社明神」と呼ばれていた。明治21年(1888)地元他の3神社と合併して「野津田神社」に社名変更。本殿前にある亀の上に乗った灯籠は石阪昌孝が奉納したものだが亀の謎はまだ解けていない。1862(文久2)年に、灯籠を奉納。
向かって右側の灯籠には、正面に「威霊光被」、裏面には「文久二年」「継二 先考昌吉君之遺志一不肖嗣子邑長石阪吉利謹建」とあり、左側の灯籠の正面には「闔郷安穏」、裏面には「壬戌仲秋」「石阪伝左衛門吉興同半右衛門建」とある。
 境内左側から東京都指定「町田民権の森緑地保全地域」への入口がある。ネット上「公園」表示が散見されているがNG。町田市有地と東京都有地とからなり総面積18、968㎡とそんなに広くはない。中途半端な手入れで十分ではない。市の委託を受けて地元農家の方々が組合を組成し農閑期暇な時に手入れをしているらしい。
 「石坂昌孝先生墓所」矢印通り階段をまっすぐ登っていけばお墓の前まで行けるが、フェンスの扉があり鍵が掛かっている。フェンス越しの墓参・見学となる。一旦出て右へ進み
駐輪場の奥にある「民権の森入口」から入ると近い。「自由や権利という言葉が、人びとに新鮮な感動を与え、人間の精神の 内に秘めた活力を呼び起こす、という時代であった。近代に入っても まだ憲法もなければ国会もなく、自治も市民的自由もなかった。
当時の町田市域は、神奈川県の行政区にあって、南多摩郡に属しており、自由や権利への実現への願いが、もっとも強く満ち満ちていた。この 地域は、武蔵国の辺境でありながら、相模国と接し、武相自由民権運動の中心的な地域となる可能性と、エネルギーを内包していた。ちなみに 三多摩東京府に移管されたのは1893年のことでした。
 神奈川県内の自由民権運動を指導した石阪昌孝(野津田)をはじめとして、村野常右衛門(野津田)、青木正太郎(相原)、細野喜代四郎(小川)、若林高之亮(下小山田)など魅力あふれる民権家を生み全国でも有数の豪農民権運動を展開した。後発の若林美之助(下小山田)や石阪公歴(野津田)ら青年たちも、民権の理想に燃えて活動をくりひろげた。
自由民権の像「この活気に満ちた時代の創造力と、情熱にあふれた青年たちの奮闘と努力をあらためて現代に呼びさまし、そして未来に伝えるために、ここに自由民権の像を建立します。市制40周年を記念して 1998年2月1日 町田市長」

◆「絹の道資料館」https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kinunomichishiryokan.html
 絹の道は、東京都八王子市から神奈川県横浜市までを結ぶ街道で、別名浜街道とも呼ばれる。江戸時代末期に横浜港が開港し、鉄道が発達する明治の中ごろまで輸出用の生糸が運ばれたルートである。1889年(明治22年)に甲武鉄道(現JR中央本線)が開通し八王子から鉄道を介した横浜港へ続く“絹の道”が作られたことで次第にその意義を失い始め、1908年(明治41年)に街道と並行して横浜鉄道(現JR横浜線)が開通するとこのルートは本格的に衰退した。1985年(昭和60年)、八王子市は市指定史跡「絹の道」の保全と環境整備を目的とする基本構想を策定した。この基本構想により、鑓水の生糸商で“石垣大尽”と呼ばれた八木下要右衛門家屋敷跡に、絹の道の中心施設となる休憩所つきの資料館が整備されることになった。1987年(昭和62年)から発掘調査による遺構の確認や石垣の修復が行われた後、1990年(平成2年)3月に木造の門や入母屋屋根を持つ絹の道資料館が完成、開館した。

<今日の出来事>
虎ノ門ヒルズが開業。11日午前11時、虎ノ門ヒルズが開業、およそ1000人の来場客が集まる中、アンダーズ東京や飲食店など24店舗が営業を開始した。森ビルは虎ノ門ヒルズ周辺を含む港区で10年間で約1兆円の再開発事業を手がける方針。

<G戦スコアボード速報>
11日の日本ハム対巨人戦(札幌ドーム)は巨人が日本ハムに競り勝った。大谷と大竹の両先発はともに7回を1失点。そのまま延長戦に突入して10回表、巨人は2死一、三塁から片岡の右前安打で勝ち越し、その裏を山口、香月でしのいで3連勝を飾った。

<昨年の今日>『梅雨いよいよ本格化』http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130611/p1