ブログ通算797日。625日間継続中です。過去を捨て去る。

◆あと今日を含め、あと4日で800日達成。ようやく公開です。

◆過去を捨て去る。ミドルエイジが軽やかに生きていくためには、「記憶力」よりも「忘れる力」が必要である。それも、過去の栄光こそ、忘れたほうがいい。過去の自慢話をしているオヤジほど、みっともないものはない。毎朝、新しい人生をスタートさせるよう、過去のしがらみを捨て去る。人は弱い生き物だ。ある程度の地位を得て、周りからチヤホヤされると、自分を見失っていく。肩書き社会の延長であり、いかにそこから脱却するのかが大事。これがまさに、今自分に必要なこと。

◆石川県西田幾多郎記念哲学館http://www.nishidatetsugakukan.org/
「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」これは、西田幾多郎京都大学を退官するときに述べた言葉である。金沢で学び、金沢、京都で教鞭をとり、晩年は鎌倉で思索と執筆に明け暮れたその一生は、一見分かりやすい人生だといえるかもしれない。しかし、その75年の生涯をつぶさに見ていくと、苦難と悲哀の重なりがあり、思索の苦闘があり、様々な人との出会いがあった。
 「人は人 吾は吾なり とにかくに 吾が行く道を 吾は行くなり」これは昭和9年西田幾多郎64歳の元旦に詠まれた歌である。まさに、己の道をひたすらに追い求めた強い信念が伝わってくる。
 西田幾多郎は、明治3年(1870年)、石川県かほく市(旧石川県河北郡宇ノ気村)に生まれた。西田は当時から勉学に熱心であり、日が暮れるのも気づかずに土蔵の中で漢書籍を読みふけり、夕食時に探しにきた親によって発見されたといったエピソードも残っている。友達と野山を駆け巡り、川で釣りをし、海で泳ぐといったように活発な子供であった。その後、西田は師範学校に進学したが、腸チフスを患い中途退学、第四高等学校(中途退学)、東京帝国大学選科へと進学した。社会へ出た後は、地元石川の尋常中学校七尾分校の教師を経て、母校である第四高等学校の講師となった。第四高等学校ではその勉学に取り組む姿勢から、生徒によってデンケン先生(デンケンとはドイツ語で「考える」の意味)と呼ばれていた。西田は京都帝国大学助教授になるまで、途中、山口や東京の学校で教職につく期間があったものの、人生の半分を石川を拠点に過ごしていまた。

保科正之の墓http://www.jalan.net/kankou/070000/071600/spt_07408aj2200132160/
 江戸前期の大名。徳川家光の異母弟。初め信州高遠藩保科家の養子。のち会津藩祖となり四代将軍を補佐。その「家訓」は藩風形成の基となった偉業を遂げた保科正之公は寛文十二年、自ら猪苗代に参られ見祢山に登り「わが身はここに納めてくれ」と家臣に命じ、墓地を定めた。
◆大龍寺(http://yae-sakura.jp/spot/sekihi/846)〜保科正之創建のお寺
 寛永20(1643)年に保科正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山したお寺である。本堂の表には、戊辰戦争殉難殉節供養の碑、本堂裏には、京都の嵐山から移植した「大龍寺のかえで」がある。山本家は八重の高祖父の時代から、このお寺を菩提寺としていて、八重は昭和6年(1931年)に、バラバラになっていた家族のお墓をここにまとめた。この大龍寺の一角にある山本家の墓には「山本家之墓」と建てられた墓標があり、これは八重が書いたものと言われている。この墓標の裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と書かれており、これを建立した翌年に、八重は88年の生涯を閉じた。

<本の紹介>
松平容保―武士の義に生きた幕末の名君 (PHP文庫) http://d.hatena.ne.jp/asin/4569569765
松平容保は朝敵にあらず (中公文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4122036046

<今日のトラックバック>また、再び「ある明治人の記録」から。そして今日は『夏至』である。http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130621/p1

<昨年の今日>これからの生きがいを探すための『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。 新・ミドルエイジ論』(成毛眞著)にみるヒント http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130617/p1