富岡製糸場 世界文化遺産に登録決定。柴五郎生誕の日。

富岡製糸場 世界文化遺産に登録決定。カタール・ドーハでユネスコ世界遺産委員会が群馬・富岡市にある富岡製糸場世界文化遺産に決定した。

◆日本の世界遺産一覧
  ・知床 - (北海道)
 ・白神山地 - (青森、秋田)
 ・平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群 - (岩手)
 ・日光の社寺 - (栃木)
 ・富岡製糸場と絹産業遺産群(登録見込) - (群馬)
 ・小笠原諸島 - (東京)
 ・富士山−信仰の対象と芸術の源泉 - (静岡、山梨)
 ・白川郷・五箇山の合掌造り集落 - (岐阜、富山)
 ・古都京都の文化財 - (京都)
 ・古都奈良の文化財 - (奈良)
 ・法隆寺地域の仏教建造物 - (奈良)
 ・紀伊山地の霊場と参詣道(通称:熊野古道) - (和歌山、奈良、三重)
 ・姫路城 - (兵庫)
 ・石見銀山遺跡とその文化的景観 - (島根)
 ・原爆ドーム - (広島)
 ・厳島神社(宮島) - (広島)
 ・屋久島 - (鹿児島)
 ・琉球王国のグスク及び関連遺産群 - (沖縄)


◆陸軍大将「柴五郎」が少年期を過ごした地 http://aomori-ubi.jp/nico-navi/show_d2.php?c=1&co=2633&n=&p=&lat=41.293044&lon=141.176183
 柴五郎(1860(安政7年)〜1945(昭和20年))は旧斗南藩出身の陸軍大将で、戊辰戦争では家族の多くが自刃したが、五郎は残された家族とともに新天地である下北に渡った。この地で柴五郎は少年期を過ごしたが、布団も無く藁に包まって寝、粥も啜るそばから凍りだす程の極寒の地で、食べるものにも困り、草や木の根を食べて飢えをしのぐ様な有様だった。

内田樹氏講演会 『伊丹十三と「戦後精神」』・・・内田樹氏、伊丹十三賞受賞(2011年11月29日)
 この中で柴五郎について触れている。『 『北京の55日』を観た人はここにはどれくらいおられるでしょう。まあ、若い人ではまず見た方はいないと思います。これは義和団事件を扱った映画です。義和団事件というのは、華北に興った義和団という拳法を使う団体の拳匪たちが1900年に「扶清滅洋(清朝を助けてヨーロッパ人を殺せ)」というスローガンを掲げて、北京に迫ったときに、西太后がそれに呼応したことによって起こった事件です。その時、各国の大使や領事たちが北京に閉じ込められ、55日間に渡って義和団の激しい攻勢に対してよく防戦して、各国の市民たちを守った。
 映画自体は、チャールトン・ヘストン演ずるところのアメリカ軍のルイス少佐が大活躍をするという話になっている。でも、歴史的な事実から言うと、この『北京の55日』の北京攻防戦、北京攻城戦を担ったのは、実質的には日本軍なんです。日本陸軍の柴五郎砲兵中佐が、この北京包囲戦の事実上の指揮官であった。というのは、彼が率いた陸戦隊のメンバーが最も練度が高く、最も統制が取れていた部隊だったからです。彼らの活躍によって『北京の55日』の籠城戦は完遂された。
 そのとき陸戦隊の軍律の高さと勇猛さに感動した軍人出身の英国公使クロード・マクドナルドが、「日本という国は極東の島国であるけれども、兵の練度も極めて高く、規律も良く、また知的な人々によって構成されているのである。だから日本を植民地の対象にするような未開の島国と侮ってはいけない」ということを本国に具申した。のちに初代駐日イギリス大使となったこのマクドナルドの、高い日本軍評価に基づいて、1902年に大英帝国と近代化したばかりの極東の小国が同盟を結ぶという、世界史的にも異例な日英同盟が成立するのです。この日英同盟のおかげで、日露戦争におけるイギリスの有形無形の支援があり、それが日露戦争における日本の薄氷の勝利をもたらしたわけですから、この義和団事件における日本陸戦隊の働きは、日本人にとっては歴史的に記念すべき武勲なわけです。このとき陸戦隊を率いた柴五郎という人は、代表的明治人のひとりで、多くの評伝が書かれています。村上兵衛の『守城の人−明治人柴五郎大将の生涯』(1992年)や石光真人『ある明治人の記録−会津人柴五郎の遺書』(1971年)など、今でも柴五郎を顕彰する本は書店の棚から消えることがありません。柴五郎は会津の人です。幼少のため白虎隊に加われず、祖母、母、兄嫁、姉妹が自刃し、生き残った家族と下北半島斗南藩に移り、そこで零下15度の、屋根もない壁もない小屋で、極寒の冬過ごすという壮絶な少年期を送ったあと、縁あって陸軍幼年学校に入り、やがて立身を遂げて、会津はもちろん賊軍とされた東北諸藩出身者で初めて陸軍大将になった人物です。岩手出身の原敬と並んで、戊辰戦争以後、新政府の冷遇ゆえに、久しく不遇のうちにあった明治の東北人たちの期待を一身に担った人物でした。
 柴五郎自身も、出自に対する強い責務の感覚を持っていました。賊軍とされて虐殺され、維新以後も「白河以北一山百文」と言われるほどに近代化から見捨てられた東北の士族を代表しなければならないとする気概がありました。明治政府に滅ぼされた会津の武士が、陸軍大将にまで登り詰めてゆく。自分の武勲によって、会津人に対する評価を改めさせてみせるという強烈な使命感に駆動されて軍歴を重ねていった人物です。そして、1945年、敗戦の年の暮れに割腹死する。明治を代表する武人です。伊丹十三が演じたのは、実はこの柴五郎の役なのです。しかし、この『ヨーロッパ退屈日記』には柴五郎についての記述が一行もありません。一行もない。それどころか、なぜ彼がこの役のオッファーを受けたのかについての説明さえない。読者は同じ本のその後の方では伊丹十三が『ロード・ジム』(1965年)のスクリーンテストを受けるために自費で行く話を読むことになります。役が決定するまでの映画界の実情について、役が決定するまでの緊張の日々を送ったという事情が書いてある。でも、『北京の55日』については、そのような記述はまったくありません。』

<昨年の今日>「また、再び「ある明治人の記録」から。そして今日は『夏至』である。」http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130621/p1