通算800日達成。日本のウイスキーの父 竹鶴 政孝+政孝を支え続けたスコットレディ 竹鶴 リタ。

●日本のウイスキーの父 竹鶴 政孝+政孝を支え続けたスコットレディ 竹鶴 リタ
 “日本のより多くの人に本物のウイスキーを飲んでほしい。”その情熱を胸に、大正7年(1918年)、24歳の青年が単身渡英。 門外不出のウイスキー製造法を学び、帰国後、日本に初めてモルト蒸溜所を完成させた。本物のウイスキーづくりに人生を賭け、日本で本格ウイスキーをつくり続けたこの男こそ、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝である。
 政孝は求婚の際、スコットランドに残る覚悟もあると伝えた。 しかし、「マサタカさんの夢は、日本で本物のウイスキーをつくること。 私もその夢を共に生き、お手伝いしたいのです。」—それが彼女の答えだった。 そして、リタは40年間、政孝の妻として、日本人として、 本格ウイスキーづくりに邁進する夫を支え続ける。
 この二人をモデルに今年10月以降NHK朝の連続ドラマで「マッサン」が放映される。

竹鶴政孝の墓 ウイスキーづくりに生涯を捧げた2人の面影 http://www.nikka.com/guide/yoichi/town/town01.html
 リタは60歳を過ぎてから入退院を繰り返すようになり、64歳の誕生日を迎えた、わずか1ヶ月後の1961年1月17日、政孝に看取られ永眠した。 亡くなった後、政孝は、まる2日間自分の部屋に閉じこもりきりで、余市町の小高い丘にある火葬場にも「おれは行かん」と言って骨を拾いには行かなかった。1年後、工場と余市川を見下ろせる美園町の墓地に、いつでも一緒にいられるようにと、自分の名も刻ませた洋風の墓を建てた。そしてリタの死後18年が過ぎて、政孝もこの世を去った。死の直前に洗礼を受けた政孝のクリスチャンネームは「アブラハム」、享年85歳であった。 短い北海道の春、美園の丘には緑が茂り、おだやかな風が木々の間を通り抜けていく。 政孝とリタは今もなお、ウイスキーの理想郷として選んだ余市の町を、そして愛してやまないニッカウヰスキー余市工場を見守り続けている。
◆ 竹鶴シャンツェ 琥珀色の夢と若者たちのスポーツへの情熱 http://www.nikka.com/guide/yoichi/town/town02.html
  「笠谷やりました・・・・」というアナウンサーのはずんだ声を耳にしながら、色々な思いが私のなかを去来した。竹鶴政孝は著書「ウイスキーと私」のなかにこう記している。第11回冬季オリンピック札幌大会(1972年)、宮の森シャンツェで行われた70メートル級ジャンプで、ニッカウヰスキーの社員であった笠谷幸生選手が、見事金メダルの栄冠に輝いたのだった。彼を栄光へと導いたのは、彼自身のジャンプへの情熱とたゆまぬ努力、そして竹鶴政孝のスポーツにうちこむ若者たちに対する理解であった。戦時中、政孝は余市中学の校長から、次のような話を持ちかけられる。
「スキーのジャンパーは優秀な飛行士になる。空に舞い上がる経験が飛行訓練に効果的だ。ついては余市に中学生用のジャンプ台をつくってもらえないだろうか」。政孝は、その申し出を快く引き受け、さっそく余市高校の裏山にジャンプ台をつくらせた。そして1941年、小樽市の元オリンピック、ジャンプ選手秋野武夫氏の設計により、余市中学校スキー部員の夏休みも返上しての奉仕作業により完成。11月29日、台開きが行われたのである。
余市蒸溜所http://www.nikka.com/guide/yoichi/about.html
 余市蒸溜所では、ご案内係によるガイド付き見学とご自由にまわれるフリー見学がある。工場内には、生産設備のほか、ウイスキーの歴史や製造方法ニッカの生い立ちなど幅広い資料を展示した「ウイスキー博物館」、創業者竹鶴政孝とその妻リタが暮らした旧竹鶴邸、レストランや原酒直売所などが利用できる。


<昨年の今日>都議会議員選挙まただ中。http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130620/p1