「軍師官兵衛」最終回

◆官兵衛が九州平定に取り組むうちに、一日で関ヶ原の戦いは決着がつき、東軍が勝ち、とうとう家康が天下人に。官兵衛の天下取りは失敗に終わる。家康と官兵衛は大阪城で対面し、これから戦のない世の中を作るという家康の本音を聞き、天下を諦める。今回の戦で息子長政が自らを超えたことを知り、「民の声を聴け。」と息子長政に伝え、また善助には兜を贈り、これを自分と思って黒田を守ってほしい伝える。妻光、息子、家来に見守られ、この世を去った。まさに、織田、豊臣、徳川と天下統一の中で走ってきた官兵衛がこの世を去った。黒田如水黒田官兵衛)は辞世の句「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」を書いた。
<福岡県福岡市>
 筑前52万石の大名となった黒田家の本拠地、福岡。福岡城は47ものやぐらを配置し、如水にとって集大成となった城であった。福岡という名は、黒田家ゆかりの備前福岡にちなみ、如水によって名付けられた。晩年、如水が暮らした御鷹(おたか)屋敷。ここで如水は茶や歌をたしなみながら、妻・光と仲むつまじく過ごしたそうだ。そして1604(慶長9)年3月20日、如水は滞在先の伏見で59年の生涯を閉じた。亡骸は、福岡県にある崇福寺に葬られた。如水の墓石には、辞世の句が刻まれています。「おもひをく 言の葉なくて ついに行 道はまよハし なるにまかせて」。その辞世からは、思い残すことなく乱世を生きた満足感がうかがえる。
 毎年7月に行われる博多祇園山笠では、如水が整えた町を神輿が駆け巡る。福岡の礎を築いた黒田如水。この地福岡市は今も発展し続けている。

◆通算984日・812日間継続中のブログだが、通算1000日で継続を止めるのか、継続1000日で継続を打ち切るのか迷うところである。でも、年内は継続していきたいものである。連続2年ぐらいは達成したいものである。

(今日のニュース)
◆”北朝鮮に責任 損害補償を” ソニー子会社 サイバー攻撃
 北朝鮮キム・ジョンウン第一書記の暗殺を題材にした映画を巡って、ソニーアメリカにある子会社がサイバー攻撃を受けた問題について、ホワイトハウス国家安全保障会議の報道官は”北朝鮮は責任を認めて企業が被った損害を保証すべき”として、サイバー攻撃を認めて映画の劇場公開中止などの損害補償をするよう北朝鮮に求めた。これに対して北朝鮮政府は関与を否定するとともにアメリカ政府に対し明確な証拠を出すべきだと反論している。
◆記念スイカ発売で混乱…鉄道ファン激怒。
 きのう開業100週年を迎えた東京駅で詰めかけた客が9000人以上を超えた。しかし禁止されていたはずの徹夜組に限定IC乗車券Suicaのを販売していたため在庫が無くなり販売が中止になったことが原因で大勢の客が大激怒。駅員が詰め寄られ倒れる客も出てきた。JR東日本は約7000枚についてを後日インターネットなどで販売することを検討している。

<今日の偉人資料館>
松本清張記念館 http://www.kid.ne.jp/seicho/html/index.html
「遅咲き偉人伝(久恒啓一著)から」http://www.amazon.co.jp/%E9%81%85%E5%92%B2%E3%81%8D%E5%81%89%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E2%80%95%E4%BA%BA%E7%94%9F%E5%BE%8C%E5%8D%8A%E3%81%AB%E8%BC%9D%E3%81%84%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E4%B9%85%E6%81%92-%E5%95%93%E4%B8%80/dp/4569793193#reader_4569793193
 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130422/p1
 松本清張(1909〜1992)が作家活動40年の間に書いた作品は、長編・短編を含め、実に1000編に及ぶ。書著は700冊。43歳という遅い出発だったにもかかわらず、この量と質だから、常に「時間との戦い」ということを意識していた。「命の時間との競争だ」といつも言っていた・調べものには厳しかった・緊張感がありいつも真剣勝負だった・「時間がない。他の作家がゴルフなどをやるのは信じられない」と語っていた・自らを奮い立たせた人だった・途方もないエネルギーを持つ怪物だった・「書くことが多すぎる」と語っていた、などのエピソードがある。このように清張には「遅咲き」という意識が常にあり、趣味などには一切見向きもしないで天職に没頭した人生を送った。清張は好奇心が強くあらゆるものに興味を持ち、作品の主題に基づいて形式と表現方法を考えた。清張は「好奇心の根源とは?」との問いに、「疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」と語っている。15歳電気会社の給仕、19歳印刷会社の見習い職人、24歳オフセット印刷所見習い、28歳朝日新聞社九州支社広告版下係、34歳正社員、35歳第24連隊入隊、39歳朝日新聞社西部本社広告部意匠係、そして41歳「週刊朝日」懸賞小説に『西郷札』で三等入選、44歳『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞、東京への転勤を経て47歳で朝日新聞社を退社し、作家活動へ入る。40代後半から、やっと念願の創作活動に専念する。そして49歳「点と線」がベストセラー、52歳所得番付作家部門一位、と満82歳で亡くなるまでの35年間をまさに仕事の鬼となって、良質の膨大な作品群を生み続けた。清張は家庭の経済状況から進学できずに、最終学歴は高等小学校卒だった。学歴による差別を受けると、その落差を埋めるだけの闘志をもって仕事をしていた。「いつかは小説家になろう」と思って本をよく読んだ。それが心のより処だった。酒も控え、趣味も持たず、ひたすら努力を重ねる人生であった。読者の声と自分の誠実さを頼りに仕事に没頭する姿を垣間見る思いがする。
 また、1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。松本清張は44歳で「小倉日記伝」で芥川賞を受賞して世に出ている。清張は遅咲きである。清張は83歳で亡くなるまで膨大な仕事をした。