まだまだ合格には程遠い。これからのカウントダウンに全力を。

◆模擬試験解答(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20151022
問1 秤(大江戸見聞録P31)採点結果 ○
問2 三囲(大江戸見聞録P92)    ○
問3 部屋者(江戸諸国萬案内P27)  ○
問4 浜田彦蔵(博覧強記P377)    ×
問5 大黒屋常是(博覧強記P23・24) ○
問6「夏秋草図屏風」(博覧強記P245) ×
問7 「穴道」(博覧強記P83)     ×
問8 月並銭(博覧強記P293)     ×
問9 御次(博覧強記P91)      ○
問10 揚帽子(博覧強記P241)    ×
 これではまたも夏検と同様の結果になる。あと一週間たらずだが、気持ちを込めて頑張らざる得ない。

◆鉄砲洲稲荷神社について
 社伝によれば、平安時代初期の承和8年(841)に江戸湾の奥にお祀りしたのが最初のようです。その後、埋め立てが進行して、現在の京橋のあたりへ遷座し、さらに室町末期の大永年中に今の新京橋の近くに遷座し、八町堀稲荷神社と呼ばれました。その後も埋め立てが進行し、寛永元年には鉄砲洲に遷座しました。鉄砲洲といっても、現在の場所ではなく、八丁堀と現在の亀島川の合流点の南岸です。
 江戸時代の鉄砲洲稲荷神社は、広重の名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」と「江戸名所図会」に描かれています。江戸時代、鉄砲洲の先の隅田川河口は、江戸第一の港で、江戸で消費する米などの物資を運ぶ船のほとんどが集まってきました。そのため、鎮座地周辺は江戸湊と呼ばれました。そこで、鉄砲洲稲荷神社は、湊神社とも湊稲荷とも呼ばれました。鉄砲洲稲荷は、江戸時代は大変有名なお稲荷さんで、お稲荷さんの番付でも西の大関に位置づけられるほどのお稲荷さんでした。そこで、鉄砲洲稲荷神社は、湊神社とも湊稲荷とも呼ばれました。鉄砲洲稲荷神社 が、現在地に移転してきたのは、明治元年です。江戸時代の鎮座地が川のすぐそばであったので、水の被害が少ない場所に移転したいといった事情もあったようです。明治になって、鉄砲洲稲荷が遷座したのに伴い、明治7年にこちらに移り、その後、何度か移転を重ねたうえで、昭和3年にここに造られました。高さは5.4メートルあります。

<10月27日生まれの先人の言葉>
セオドア・ルーズベルト(政治家・アメリカ大統領)
 ・できるか、と尋ねられたときはいつでも、たしかにできると答えなさい。それから急いで、どうすればいいかを探しなさい。
 ・外交は、大きな棍棒片手に優しい音声で。
大野一雄(舞踏家)
 ・ほんの一粒の砂のような微細なものでもいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない」
 ・わからないままやってみる。わからないけれども感動した。そのために踊っているんですよ。だから、わかりましたと言われると困ってしまう。
 ・考えてやっていると、見ていてわかる。次はああしよう、こうしようと考えながらそれを隠そうとしても百パーセント、隅から隅まで伝わってしまう。だから自分のやることに責任を持って。でたらめでもいいから。
半村良(作家)
 ・人は酔うとそれぞれ自分の好きな役柄を演技する。
 ・権力の内部はその外側よりもっと激しい闘争が起こるのだ。