東京を歩く④「浅草を歩く③」

◆一昨日、昨日に引き続き浅草を紹介していきたい。
浅草神社(三社権現)
 浅草寺本堂の東側には浅草神社が建っている。浅草寺の起こりとなった聖観音像を発見した檜前浜成、竹成兄弟と土師中知(あるいは土師真中知)の三人を神として祀った三社権現社として建立された。建立の時期ははっきりとせず、土師中知(あるいは土師真中知)の子が夢告を受けて創建したとも伝えられているようだが、実際には平安末期から鎌倉期にかけての頃に彼らの末裔が建立したものだろうとの見解を浅草神社は示している。「三社さま」と通称され、のちに東照権現(家康)も祀られた。その由緒に於いて浅草寺と密接な繋がりのある神社だが、明治の神仏分離令によって浅草寺から分離、「三社明神社」、さらに「浅草神社」と改称され、現在も浅草神社浅草寺とは別の独立した宗教法人である。現在の社殿は慶安2年(1649年)、徳川家光によって建立されたもので、社殿は権現造りで、幸いにも関東大震災や戦災も免れ、現在までその姿を残している。昭和21年(1951年)には国の重要文化財に指定された貴重な文化遺産である。浅草神社はその由緒から今もなお「三社様」として親しまれている。毎年五月に行われる有名な「三社祭」はこの神社の例大祭である。神社神輿三体の宮だし、宮入と各町渡御などが行われる。

・新奥山
 江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸随一の盛り場として大道芸人見世物小屋で大いに賑わう著名な場所であった。奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと考えられる。
 明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。現在は「新奥山」として整備され、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。

・力石
 力石(ちからいし)と読み、「さし石」とも呼ばれる。江戸時代後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。ここにある力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
 「力石・熊遊(くまゆう)の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎(しんもんたつごろう)らがその記念として建てた。

瓜生岩子
 瓜生岩子(うりゅういわこ。1829〜97)は福島県会津に生まれ、その半生を社会福祉事業にささげた。児童教育や女性・貧民救済などの社会福祉事業の推進に努め、晩年の明治29年(1896)には、藍綬褒章を女性としては初めて受賞している。
 この像は、岩子の善行をたたえ、実業家の渋沢栄一(1840〜1931)らの助力のもと、明治34年(1901)に完成した。教育家として女性の地位向上に尽力した下田歌子(1854〜1936)の撰文が台座に刻まれている。

・「暫」像
 この像は、「劇聖」と賞賛された明治時代の歌舞伎役者、九代目市川団十郎(1838〜1903)の十八番「暫(しばらく)」の銅像である。現在の像は、十二代目市川団十郎(1946〜2013)襲名を機に復元されたものである。歌舞伎愛好者のみならず、多くのご信徒に親しまれている。

●被官稲荷神社
 安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納された。
例大祭は毎年3月18日に行われている。このお社は安政二年に創建されたもので、一間社流造といわれております。社殿は杉皮葺で、創建以来のものであり間口1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護しています。覆屋は大正期の建築物でしょう。また、社殿は先の関東大震災東京大空襲にも奇跡的に焼け残った大変貴重な建築物です。

●二天門
 二天門は、浅草寺の寺門ではなく、今はない浅草東照宮随身門であった。本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建つ。重要文化財指定。本瓦葺、切妻造り、木造朱塗り八脚門に、明治初年、神仏分離令によって、随身像は増長天(左)・持国天(右)に変わり、二天門と改称した。「二天門」の扁額は最後の太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ 1837〜91)筆。
 元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立された。豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神をまつり、俗に「矢大神門(やだいじんもん)」ともいわれた。
  寛永19年(1642)東照宮は焼失し、その後の再建は許されずに「石橋(しゃっきょう)」(影向堂前)とこの門だけが残った。
  明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天を奉安して「二天門」と改称したが、両像は戦時中、修理先で焼失。現在の二天像は、上野・寛永寺の巌有院(第4代将軍徳川家綱)霊廟(れいびょう)より拝領したもの。
  現在の門は、その形式と技法より、慶安2年(1649)頃に建立されたと言われる。  創建以来、補修・改築が加えられていたが、平成22年(2010)の落慶にあたって創建当初の形式に戻された。元和4年(1618)に建立、当初は境内にあった東照宮随身門であった(建立年月については諸説あり)。同じく元和4年(1618)に造営された「東照宮」は寛永8年(1631)と同19年(1642)の二度の炎上後、江戸城内紅葉山に遷座された。現在の門は、その形式と技法より、慶安2年(1649)頃に建立されたと言われる。
様式は本瓦葺、切妻造り木造朱塗り八脚門である。二天像は、増長天(左)・持国天(右)(慶安時代作・都重宝)である。持国天増長天は、四天王に数えられる仏さまである。四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られる。増長天は南方、持国天は東方を守護するとされ、仏舎利を収める仏塔やお釈迦さまの周囲に安置される例が多い。向かって左の増長天は、右手に法具を掲げ、左手は腰にあてる。右の持国天は、増長天は対称的な姿勢を取り、左手を上げて密教法具を持ち、右手を腰にあてる姿勢を取る。元来は全身に華やかな彩色が施されており、今でも顔や鎧(よろい)に古来の鮮やかさが残されている。どちらも「寄木造(よせぎづくり)」という、鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技術で造られている。

・「旧五重塔跡」
 現在、五重塔は境内の西側に建立されているが、かつてはその反対側に位置していた。現在は、「旧五重塔跡」と記された石碑が跡地に建っている。10センチ程度の石ですが、境内に小さくその面影を残している。(浅草寺東側交番付近・宝蔵門右)
 浅草寺五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33メートル)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604〜51)により建立され、かつては歌川広重(うたがわひろしげ)・歌川国芳(くによし)などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られていた。
・まさる(天ぷら)
・黒田屋本店 雷門の右真横にある、和紙を使った商品を扱っているお店。場所柄、外国人客も多く、版画や張り子人形などを取扱っております。

浅草花やしき
 1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約80000m2だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、ブランコが唯一の遊具だった。明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。
この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した。ただし、一度取り壊された後、1947年(昭和22年)に復活した経緯があるため、断絶のない歴史としては前身も含めて1912年(大正元年)開業とされるひらかたパークの方が長い。敷地面積5800m²。国産初、日本で現存最古のローラーコースターがある。
1947年(昭和22年)、「浅草花屋敷」と改名。2年後には「浅草花やしき」と改名。のちの花やしきの園長を務めた高井初恵の夫である高井清が支配人に就任した。そして1953年(昭和28年)のローラーコースター、1950年(昭和25年)のBeeタワーなど現在あるアトラクションが登場し始めた。長らく入園料を取らず、利用する施設ごとに回数券などで料金を支払う形を取っていた。1996年(平成8年)3月、日本初となるタワー型垂直打ち上げ式アトラクション「スペースショット」がオープンした。
 2007年(平成19年)3月10日には、10年ぶりの大型アトラクション「DISK-O」がオープンした。バンプレストの事業再編に伴い、2008年(平成20年)4月1日をもって直接の親会社がナムコに移行した。同年3月には、花やしき通り沿いに、遊園地に入らなくてもショーが楽しめる「大江戸ステージ」がオープンした。現在はナムコの子会社である株式会社花やしきが運営している。

・「六区ブロードウェイ」・・・浅草六区
 東京の下町を代表する街、浅草。ここにある、すしや通りとひさご通りを結ぶ全長約300mの商店街が、浅草六区ブロードウェイです。浅草演芸ホールや浅草中映劇場、浅草ボウルなどがあり、かつては「浅草六区興行街」と呼ばれていました。それだけに、ここから生まれた有名人は数知れず。寅さんこと渥美清さん、萩本欽一さん、ビートたけしさんもこの街で芸を磨きました。街中には奏神、唄神、戯神など6種の芸能の神様が祀られているので、その姿を探しながらの散策も楽しみである。
 一区観音堂、二区仲見世、三区伝法院、四区木馬館付近、五区花やしき、六区興行街

*またいずれ浅草の風物詩を調べ紹介したいものである。

<11月19日生まれの先人の言葉>
●稲葉修(政治家)
 ・刑事責任の追及段階では、捜査当局が主役であり、国会は脇役ではないのか。
●Peter Drucker (ピーター・ドラッカー)(経営学者)
 ・The best way to predict your future is to create it.
 ・未来を予測する最良の方法は、未来を創ることだ。
 ・Whenever you see a successful business, someone once made a courageous decision.
 ・成功した企業は、きまって誰かがかつて勇気ある決断をした。
 ・Unless commitment is made, there are only promises and hopes; but no plans.
 ・コミットメント(責務)なしでは、単に約束と希望があるだけで、そこに計画はない。
 ・There is nothing so useless as doing efficiently that which should not be done at all.
 ・元々しなくても良いものを効率よく行うことほど無駄なことはない。
 ・If general perception changes from seeing the glass as “half full” to seeing it as “half empty”, there are major innovative opportunities.
 ・世の中の認識が、「コップに水が半分入っている」から「半分空である」に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる。
 ・The most important thing in communication is to hear what isn’t being said.
 ・コミュニケーションで最も大切なことは、相手が語らない部分を聞くことである。