東京を歩く③「浅草を歩く②」

 昨日に続いて「浅草を歩く。」を紹介。
●宝蔵門(仁王門)
 仁王門と浅草寺宝物の収蔵蔵を兼ねたもので、鉄筋コンクリート造り、外観は重曹の桜門で高さ21.7m、間口21,1m、奥行き8.2mである。仁王門は、『応永縁起』によると、安房平公雅(たいらのきんまさ)が武蔵守に補任された天慶5年(942)、その祈願成就の御礼として建立された。以来、数度の火災により炎上するも、その都度再建された。
 鎌倉時代から江戸初期にかけては、あまり変化はなかったが、その後、徳川家光により再度の寄進建立が行われ、本堂と仁王門が慶安2年(1649)12月23日落慶、元禄5年(1692)に京都の曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)良尚法親王ご染筆の「浅草寺」の扁額がかけられた。その後、昭和20年(1945)3月10日の戦災に遭うまで平穏無事だった。昭和20年の戦火で焼失、現在の宝蔵門は昭和39年の大谷米太郎氏の寄進により竣工されたものである。現在の門は浅草寺の山門として、内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として大谷重工業・ホテルニューオータニ創始者大谷米太郎氏のご寄進により復興再建された。その収蔵庫 は昭和37年(1962)7月25日に什宝物を収納した。門の両側に木造仁王像が安置されている。「五重塔」(家光により再建された五重塔は戦災で焼失)は、昭和44年にそれまであった場所とは反対側に再建された。
 宝蔵門裏にかけられている「大わらじ」は吽形の仁王尊の製作者である村岡久作氏の山形県村山市の奉賛会により奉納されている。浅草寺にはこんな大きなわらじをはく人がいるなら「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくという、魔除けと健脚を願い「わらじ」に触れていく人が多い。(高さ 4.5m・幅 1.5m、重さ 500kg、藁 2,500kg使用)、阿形の仁王尊製作者は錦戸新観作。

浅草寺本堂 天台宗、坂東13番巡礼所、関東観音1番札所
 浅草寺山号を金龍山といい、聖観世音菩薩を本尊とする聖観世音宗の総本山、東京都内で最古の寺院であるという。「浅草寺縁起」に依れば、浅草寺の起源は、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が投網の中に人型の像を見つけたことに端を発する。時は飛鳥時代推古天皇の御代36年のことという。西暦で言えば628年のことで、いわゆる「大化の改新」以前の出来事である。拾い上げた人型の像を土師中知(はじのなかとも)に見てもらったところ、その像は聖観世音菩薩像だった。土師中知は出家して僧となり、自らの屋敷を寺としてこの仏像を安置、供養したという。これが浅草寺の始まりである。この土師中知の名については他説もあり、浅草神社では土師真中知(はじのまなかち)としているようだ。土師中知(あるいは土師真中知)は郷の長、豪族で、今で言う「文化人」だったようだ。その17年後の大化元年(645年)、勝海上人が観音堂を建立、夢告により本尊の聖観世音菩薩像を秘仏と定めた。聖観世音菩薩像は一寸八分(約5cm)の黄金仏と伝えられているようだが、勝海上人が秘仏と定めて以来、現在に至るまで非公開であるために確かめようもない。それからさらに200年ほどを経た平安時代初期、比叡山延暦寺の慈覚大師が秘仏に模した「お前立ち」(秘仏の代わりの開帳仏として人々が拝むための観音像)を造ったのだという。このため、浅草寺では勝海上人を創設者の意味の「開基」と呼び、慈覚大師を中興開山と呼ぶ。
 徳川家康が、秀吉から関八州が与えられ天正18年(1590)に入府。芝の増上寺菩提寺に、浅草寺江戸城鎮護の祈願寺に定めた。寺領500石、11万4千坪を寄進し、大寺院になった。以来、浅草寺は「浅草観音」、あるいは「浅草の観音様」として人々の信仰を集めてきた。観音霊場として参拝者を集めるだけでなく、江戸時代後半からは境内に芝居小屋が建つなどして庶民の娯楽の場として繁華な佇まいを見せていたようだ。戦後はやや寂れた時期もあったようだが、現在では東京を代表する観光地のひとつとして多くの観光客を集めている。年中行事も多く、2月に淡島堂で行われる針供養、5月に行われる浅草神社三社祭、7月の朝顔市やほおずき市、12月の羽子板市など、それぞれに多くの人出で賑わう。もちろん大晦日から正月にかけては初詣の人々で溢れることになる。
 浅草寺本堂は観音堂とも呼ばれ、ご本尊が安置され、参拝の人々が絶えない。創建以来、本堂は幾たびかの焼失と再建とを繰り返したが、慶安2年(1649年)、徳川家光によって再建されたものが近世まで残り、明治期に「国宝」に指定されている。この国宝の浅草寺本堂は関東大震災でも倒壊を免れたという。しかし残念ながら昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で焼失、現在のものは昭和33年(1958年)に再建されたものだ。鉄筋コンクリート造、間口は約35メートル、奥行き約33メートル、棟高は30メートルほどという堂々とした姿だ。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)の筆による「龍之図」、天井には堂本印象(どうもといんしょう)の筆になる「天人散華之図」がある。内陣中央の宮殿(くうでん)に秘仏本尊と「お前立ち」の観音像が安置されているが、もちろん秘仏本尊は公開されることはない。
  浅草寺本堂は2009年(平成21年)2月から2010年(平成22年)12月にかけて「平成本堂大営繕」と呼ばれる改修工事が行われた。1958年(昭和33年)に再建されて以来、約50年ぶりに屋根の葺き替えも行われた。屋根の葺き替えにはチタン成形瓦が使用されている。

五重塔
 宝蔵門の西側には五重塔が建っている。最初のものはこれも天慶5年(942年)に平公雅(たいらのきんまさ)が建立したものという。これも焼失と再建とを繰り返した後に慶安2年(1649年)に再建され、江戸時代には増上寺寛永寺天王寺の塔と共に「江戸四塔」として親しまれていたという。浅草寺の「塔」の創建は平公雅(たいらのきんまさ)によると言われていますが、江戸時代の慶安元年(1648)に再建され、安藤広重歌川国芳の浮世絵に登場する浅草五重塔も明治期に国宝に指定されたが、やがて東京大空襲で焼失する。現在のものは昭和48年(1973年)に再建されたものである。以前は現在地とは異なり本堂の東南に位置していたが、再建時に本堂の西南側である現在地に移っている。塔は地上から50メートル超という高さ(塔部分だけでも48メートルほど)で境内でもひときわ目を引く。最上階にはスリランカのイスルムニヤ王立寺院から贈呈された仏舎利が納められている。

●二尊仏
 この観音(右)・勢至(左)二菩薩の金銅坐像は「二尊仏」(にそんぶつ)、一般には「濡れ仏」(ぬれぼとけ)の名で知られ、信仰されている。像の高さは、共に2.36mで、蓮台も含めて4.5mの像高を誇り、江戸初期を代表する優れた仏像である。
 江戸時代前期の貞享4年(1687)、現在の群馬県館林の高瀬善兵衛(たかせぜんべえ)が願主となって建立した。善兵衛は江戸日本橋の米問屋に奉公し、のちにその主家への報恩と菩提を弔う為に造立した。観音像は球種善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るためと、蓮台台座銘に記されている。

●久米平内堂
 久米平内(くめのへいない)は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没したといわれる。彼の生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺したので、その罪を償うために日ごろ修めていた「仁王座禅」の自分の姿を石に刻ませ、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。現在でも願いをこめる女性の姿を見かける。

・鳩ポッポの歌碑
本堂の西南側にひっそりと「鳩ポッポの歌碑」がある。東くめ作詞、滝廉太郎作曲の童謡「鳩ポッポ」の歌碑として昭和37年(1964年)に建てられたものだ。この「鳩ポッポ」の歌詞が浅草寺境内での鳩と子どもたちとの姿を描いたものらしいというので、浅草寺境内に歌碑が建てられたものらしい。ちなみにこの「鳩ポッポ」は、一般によく知られた文部省唱歌の「鳩」とは異なる楽曲なのだが、混同されることも少なくないようだ。
 この「鳩ポッポ」を作詞した東くめは日本初の口語歌詞の童謡を発表した童謡作詞家として知られている。東くめは明治10年(1877年)、新宮藩家老由比甚五郎の長女として和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)に生まれた。子どもの頃から音楽を志し、東京音楽学校に入学、明治30年(1897年)に卒業すると同時に東京府高等女学校の音楽教諭になった。明治32年(1899年)に東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教授だった東基吉と結婚、この頃から基吉の提案によって口語歌詞による童謡の作詞に取り組み始める。明治34年(1901年)、後輩だった滝廉太郎と組んで制作した日本初の口語歌詞童謡、「お正月」、「鳩ポッポ」、「雪(雪やこんこ)」を発表する。やがて大坂へ転居、昭和44年(1969年)に亡くなる直前まで、現役のピアノ教師として働いていたという。
 かつて浅草寺と言えば、参拝客が鳩に餌を与える様子がひとつの名物と言ってもよかった。この「鳩ポッポの歌碑」近くに「はと豆」売りの小屋があり、その前の広場で「はと豆」を与える参拝客に鳩の群れる姿が見られたものだ。浅草寺境内では大正時代頃から露天商が鳩の餌を売るようになり、参拝客がそれを買って鳩に与えていたという。餌があれば鳩は増える。一時期、浅草寺には約3000羽の鳩がいたという。やがて世相も変わり、糞などによる被害が取り沙汰されるようになる。付近住民からの苦情も無視できなくなり、台東区は平成15年(2003年)夏頃から「鳩の餌やり禁止」を呼びかけるようになった。その年の暮れには「はと豆」売りの小屋もついに撤去されたという。

●戦災銀杏
 浅草寺本堂東南に位置する公孫樹(いちょう)は、樹齢八百余年といわれ、源頼朝公(1147〜99)が浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。昭和5年(1930)に当時の文部省より天然自然記念物に指定されたが、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の折、焼夷弾(しょういだん)を浴びながらも、その猛火から鎮護堂を守ったと伝えられる推定樹齢400〜500年の公孫樹(いちょう)である。天然自然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。今でも木には当時の焼け跡が残っている。炎を潜り抜けた銀杏はまた芽を吹き、罹災者に元気を与えてくれた。
 
<11月18日生まれの先人の言葉>
山田顕義(軍人・政治家)
 ・英雄は死す。されど凱旋門は残る。英雄の名声と遺産によって、市民はその豊かさを享受する。
 ・欧米諸国の国法と我人民慣習の法とを斟酌し国法の条目を審議し、国法に依り以て国律を確定すべし。
 ・軍とは何のためにあるか。帝室を守衛し人民を安全にするためである。しかし他にも、国には法があり律があり、教育の道がある。
古賀政男(作曲家)
 ・歌の裏の意味を考えてあげるのがメロディーをつける人の責任ですね。
 ・小学校時代の私は英才ではなかった。ただ私は”驚く”という才能があった。