東京を歩く②「浅草を歩く①」

◆浅草を歩く。浅草ガイドメモ。(まだ不十分かもしれないが。)
●浅草広小路 奥州街道分岐点
 江戸の火災を防ぐために各所に通りを広げた場所。火除け地。両国広小路、上野広小路。広場に芝居小屋、屋台、見世物小屋等人が集まり賑やかになる。
 奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国宇都宮宿以南の区間日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。
 ・「龍昇亭西むら」
安政元年、雷門の正面に創業しました。味の良さでしのぎを削る浅草にあって、ひときわ有名なお店です。金龍山浅草寺の御供物などを引き受けていた関係からついた「龍昇亭」の屋号が、その歴史と伝統を物語ります。「西むらの菓子は機械でなく道具で作る」「季節を重んじ、季節を和菓子で表現する」それが、西むらの精神です。羊かんには蒸し羊かんと、寒天を使った練り羊かんがあるが、歴史は蒸し羊かんの方が古く、小麦粉と小豆餡を練り、羊の肝のような色になった時、これを蒸したものだった。これに栗を加えたのが栗むし羊かんだ。西むらは江戸末期に、雷門前の広小路に面した茶屋町お茶屋を始め、文政12年の歌川広重作『雷門前図』にもお店が描かれている老舗。「栗むし羊かん」はもちろん、「金龍(ももやま)」「東京かすてら」、「昇り鮎」など浅草の催事と季節にちなんだ品々が大人気。
 ・「神谷バー
 明治13年日本初のバー。浅草一丁目一番地。数々の文豪に愛された。電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと"電気○○○"などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです。デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気でした。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度です。大正時代は、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸に一杯十銭のデンキブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみでした。もちろん、今も神谷バーは下町の社交場。仕事帰りの人々が三々五々、なかには若い女性グループも、小さなグラス片手に笑い、喋り、一日の終わりを心ゆくまで楽しんでいます。時の流れを越えた、じつになごやかな光景です。明治・大正・昭和・平成、時代は移っても人の心に生き続けるデンキブラン
浅草と文学のつながりはひじょうに深く、浅草からは、じつに多くの名作が誕生しています。たとえば永井荷風は、小説「すみだ川」で下町情緒あふれる隅田川界隈を舞台に、美しくも哀しい人間模様を描き、その後昭和の初めには、川端康成が、浅草の最も華やかな時代を「浅草紅団」「浅草の姉妹」「浅草の九官鳥」など数編の小説に収めています。このほか石川啄木萩原朔太郎高見順谷崎潤一郎坂口安吾壇一雄…など、数多くの文学者たちが浅草に心惹かれ、何らかのかたちで浅草にその足跡を残しています。
・昭和三十五年芥川賞を得た三浦哲郎作「忍ぶ川」、このなかにも神谷バーデンキブランが登場します。「忍ぶ川」は青春小説として大きな感動を呼び、映画化もされました。「でもせっかくの休みだから、栃木へいってきた方がよくはないかな」栃木には志乃の父、弟妹たちがいるのである。「ええ。…・でも、せっかくの休みだから、ふだんできないことをしたいんです。やっぱし、浅草へいきたいわ」― 中略 ―「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな」「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっとみたような気がするんですの。映画見て、神谷バーへいって、あたしはブドー酒、あなたは電気ブランで、きょうのあたしの手柄のために乾杯して下さいな。これは「忍ぶ川」の一場面。主人公と料亭「忍ぶ川」で働く志乃の会話です。共に不幸を背負う二人が胸をはずませて初めてのデートをします。もし、志乃の頬がバラ色に染まったとしたら、それは神谷バーのブドー酒のせいだけだったでしょうか。
1880年明治13年)4月初代神谷傅兵衛浅草区花川戸町四番地にて、「みかはや銘酒店」を開業。酒の一杯売りを始める。1881年明治14年)輸入葡萄酒を再生し販売を始める。1882年(明治15年)速成ブランデー(現在のデンキブラン)の製造販売を始める。.
1912年(明治45年)4月10日店舗の内部を西洋風に改造し屋号を「神谷バー」と改める。1921年(大正10年)神谷ビル(現在も使用している建物)落成。1949年(昭和24年)3月1日株式会社神谷酒場設立。)
・『スーパードライホール』(アサヒグループホールディングス)の屋上オブジェ
スーパードライホール屋上のオブジェは、1989年にアサヒビール創業100周年を記念してスーパードライホールと共に建設された。オブジェのデザインは、フランスのデザイナーのフィリップ・スタルク氏によるもの。「フラムドール」(フランス語で金の炎)と呼ばれております。アサヒビールの燃える心を象徴。オブジェが炎、そして下のスーパードライホールが聖火台をイメージして設計。
●浅草文化観光センター
 浅草文化観光センターは、浅草雷門前に位置する観光案内所です。4か国語(日本語、英語、中国語、韓国語)による観光案内を行っています。待ち合わせに利用すると良い。8階の展望テラスからは東京スカイツリーや浅草のまちを一望することができます。1階には外貨両替所、3階には旅行団体支援スペース、6階には多目的スペースがあり、通常イスが設置されており、休憩場所としてお弁当などの飲食可。校外学習での昼食場所利用などにも利用できる。
・「ちんや」
 江戸時代、弊店は諸大名や豪商に狆(ちん)などの愛玩動物を納め、獣医も兼ねていたところから「狆屋」と呼ばれておりました。明治13年に料理屋に転じましたが、「ちんや」をそのまま屋号といたしました。その後明治36年にすき焼の専門店になりました。
・「雷おこし」
 雷おこし(かみなりおこし、雷粔籹)は、米をいったん蒸かし、その後煎って膨らませたものに水飴、砂糖、落花生などを混ぜて固めた和菓子である。もともとは唐菓子の一種として平安時代に日本に伝わり、日本各地に伝わり、江戸時代に駄菓子としてつくられるようになった。関東の雷おこしに対して、関西では岩おこし、栗おこし、愛知や九州にも米おこしにもおこしがある。
 雷おこしの老舗、常盤堂によると、雷おこしの名前の由来は、浅草浅草寺の「雷門」の「雷」と「家を起こす」「名を起こす」の「おこす」をかけたもの。江戸時代後期の1795年(寛政7年)、焼失した雷門の再建を機に露天商が縁起物として売り始めたのが発祥と言われ、浅草名物の土産物として知られる。
浅草寺(せんそうじ)・・・雷門左に「坂東三十三箇所音霊場」石碑あり
東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所音霊場(ばんどうさんじゅうさんかしょ・神奈川県・埼玉県・東京都・群馬県・栃木県・茨城県・千葉県にかけてある33か所の観音霊場のこと。源頼朝によって発願され、源実朝が西国の霊場を模範として札所を制定したと伝えられている。第一番札所の杉本寺(神奈川県鎌倉市)から第三十三番札所である那古寺までを巡拝すると、その道程は約1300キロメートルにもなる。巡礼者は全ての札所を巡拝(結願)すると、善光寺および北向観音に「お礼参り」をすることが慣わしとされている。お礼参りの始まりは江戸時代とされる。)の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場江戸三十三箇所(えどさんじゅうさんかしょ・東京都内にある33箇所の観音札所のことである。寛永18年(1641)から、元禄11年(1703)の間に開創された江戸三十三所霊場を基に、昭和51年制定された。)の札所(1番)でもある。
●雷門
 浅草寺の総門である雷門は、浅草を代表する顔。雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門。東京都台東区浅草一丁目2番 - 3番地に位置する。正式の名称は、風神雷神門(ふうじんらいじんもん)。 提灯には風雷神門(ふうらいじんもん)と略されてある。
 門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門である。門の中央には、重さ約700Kgの提灯が吊りさげられており、浅草のランドマークとなっている。北斎941年、安房国の太守であった平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。翌年、配置転換の願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願し伽藍などの寄進を行った。初代の雷門に相当する門は、その際に造られたとされる。雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場するが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明である。知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられる。山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。最後の火災は1866年(慶応元年12月14日)であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消す。
 明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、その時々のイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであった。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。
 1960(昭和35)年、松下電器産業(現パナソニック)の創設者、松下幸之助が病気だったころに浅草寺に拝んだ。そして、治ったためそのお礼として門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が成立した。風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っている。また、昭和53年の開帳1350年を記念して、門の裏側には芸術院会員、台東区名誉区民の平櫛田中天竜、金竜二神の像が安置されている。平櫛田中は、谷中岡倉天心記念公園内の六角堂、天心坐像の作者でもある。
 門の間口は六間半(11.8m)奥行き三間(5.4m)。ちゅうおう吊り下がる大提灯は、高さ4m、直径3.4m、重さ670g。平成4年12月に改修され、新しくなった。
 (*五穀とは、日本においては、「いつつのたなつもの」あるいは「いつくさのたなつもの」とも読む。古代からその内容は一定していない。現代においては、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い。いずれも代表的な人間の主食である。これら五種をブレンドした米を五穀米(ごこくまい)と呼び、また、五穀米とは日本初の五穀米商品として石川商店から発売されている商品に使われている名称(登録商標)でもある。
・「雷門三定」
 江戸時代、三河(今の愛知県)出身の定吉人形町の自宅前で店を開き、江戸近郊の新鮮な小魚をごま油で揚げたのが三定の始まりです。三河定吉、すなわち「三定」。以来160年余年、浅草は観音様のお膝下で代々の味を継承しております。三定の天麩羅は香ばしく、あと口も軽いのが好評。
仲見世
 ・江戸の仲見世
仲見世は日本で最も古い商店街の一つです。徳川家康江戸幕府を開いてから。祈願寺として信仰され、また江戸の繁栄とともに人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいました。浅草寺境内の掃除の課役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上にに出店営業の特権が与えられました。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688年〜1735年)の頃と言われています。
 江戸時代には伝法院から仁王門よりの店を「やくだな」と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門よりは、「ひらみせ」と呼ばれ、玩具、菓子、土産品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へと発展していきました。
 明治維新の政変により、寺社の所領が没収され、浅草寺境内は東京府の管轄となり、政府は新しく東京に5公園(浅草(金竜山浅草寺)、上野(東叡山寛永寺)、芝(三縁山増上寺)、深川(富岡八幡社)、飛鳥山の5箇所を上申し、東京に5公園が生まれた。)を作り、公園法を制定して以前からの一切の特権が仲見世から取り上げ、明治18年(1885年)5月、東京府仲見世全店の取払いを命じ、退店した後、煉瓦造りの洋風の豊かな新店舗が同年13月に完成、近代仲見世が誕生した。
・大正以後の仲見世
文明開化、明治の匂いを留めた赤レンガの仲見世大正14年関東大震災で壊滅し、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリートによる桃山風朱塗りの堂々たる現在の仲見世に生まれ変わった。因みに新仲見世商店街の歴史も、関東大震災からの復興に伴う区画整理の後、昭和5年(1930年)に浅草松屋が開店し、そこから六区を繋ぐ道が整備されたことに端を発している。その新生仲見世も昭和20年(1945年)の戦災で建物内部をすべて焼失してしまったが、戦後間もなく復興、昭和60年(1985年)には近代仲見世百周年を記念して電飾看板の改修、参道敷石の取替工事を行うなど多彩な行事でお祝いした。平成元年4月には東京芸術大学平山郁夫教授指導で「浅草絵巻」と題し、全店のシャッターに浅草の祭事を描いた。
 現在の仲見世は統一された電飾看板に飾られながら雷門から浅草寺までの約250メートルを繋ぐ。東側54店、西側34店合計88店の店舗が軒を連ねている。観光客で賑わう町だから当然のことながら土産物を取り扱う店が多い。外国人観光客はやはり日本情緒を感じさせる品物がお好みのようだが、日本人の身であっても色鮮やかな扇子や花かんざしなどを扱うお店では自然に足が止まってしまう。昔ながらの玩具を扱うお店も楽しい。訪れたのは秋だったが、江戸風鈴の涼やかな音色にも心惹かれる。歩いていると、なかなか誘惑が多い。当然のことながら人形焼や雷おこしを売るお店も多い。土産物用の箱詰のものの他に、焼きたての人形焼を店頭で販売している店もある。それを買い求め、どこかで一休みしながら頬張るのもいい。温かい人形焼きはたいへんに美味しい。
・「河竹黙阿弥住居跡」
河竹黙阿弥は、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者で、明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えています。河竹黙阿弥は、分化13年(1816)に日本橋の越前屋勘兵衛の長男として生まれました。若いときから遊蕩にふけり、14歳で勘当されて、貸本屋の手代となったこともあったようです。天保6年(1835)、20歳のときに5代目鶴屋南北の門に入り、狂言作者見習となりました。天保14年には2代目河竹新七を名乗って江戸河原崎座の立作者となりました。
 嘉永7年(1854)、4代目市川小団次のために書いた「都鳥廓白浪」が当たりをとり市川小団次に認められ、以後、慶応2年(1866)に小団次が亡くなるまで,彼のために多くの傑作を書きました。
 天保14年(1843)天保の改革水野忠邦により江戸三座が浅草猿若町に移転させられると、河竹黙阿弥も間もなく芝から浅草の浅草寺の子院である正智院の地内に住まいを移しました。
現在、雷門と宝蔵門の間は、仲見世となっていますが、江戸時代には、雷門と仁王門(現在の宝蔵門にあたる)の間には、浅草寺の子院が建ち並んでいました。正智院も、そうした子院の一つでした。正智院の地内(じない)に住んでいるので「地内の師匠」と呼ばれるようになりました。
 そして、明治20年に本所に引っ越しするまで、浅草で暮らしました。仲見世の中ほどの横丁を東に入ると仲見世会館があります。その正面横に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が建っています。また、浅草神社の境内には、「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられています。

・「梅園」
安政元年(一八五四年)浅草寺の別院・梅園院の一隅に茶屋をひらいたのが始まりで、屋号梅園もそのゆかりである。初代は元祖あわぜんざいで好評を博し、東京名物となり、以来一六〇余年甘味処として伝統を継承してきた。
・「中清(天ぷら)」
 幕末の頃、初代中川鐡蔵が、広小路通りに屋台を出したのが始まりで、明治3年浅草公会堂前に店を構え現在に至っている。当店の名物の「雷神揚げ」は、仏文学者辰野隆博士が雷門に立つ雷神様の持つ雷太鼓に似ているところから名付けられたもの。古くは、文豪永井荷風の作品の中にも、しばしば当店を訪れる場面があり、三代目と幼馴染みの作家、久保田万太郎にも愛された。
●伝法院
 伝法院は浅草寺院号であったが、いつの間にか住職が居住する本坊の称号に用いられている。浅草寺の本坊。安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがあり、「伝法院」はこれらの総称。もとは観音院、智楽院などと称したが、元禄(1688〜1704)以後この名が付けられた。 客殿に阿弥陀三尊をまつり、その左右に徳川歴代将軍のうち歴代11名の位牌及び浅草寺各世代住職の位牌を安置する。回向道場として追善法要や、伝教大師忌の「山家会(さんげえ)」・天台大師忌の「天台会」などの論義法要が行われ、当山の修行道場でもある。約3,700坪の庭園は、寛永年間(1624〜44)小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」である。
・「伝法院通り」
①地口行灯(じぐちあんどん)
 地口とは江戸時代に流行したいわば洒落ことばです。ことわざや成り句・芝居のせりふなどをもじって洒落をつくったもので、それを行灯に書いて祭礼などに競って飾る。というのが江戸の風習のひとつでした。伝法院通りでは鎮護堂(おたぬきさん)のご縁日に飾られていたのが始まりで、今では12本の街路灯(24面)に年間を通してこの地口行灯を飾るようになりました。
②鼠小僧 (ねずみこぞう)
江戸市中を騒がせる鼠小僧(十八世中村勘三郎メモリアル「平成中村座発祥の地」記念碑建立に合わせた「勘三郎バージョン」。)がある。浅草公会堂前にある呉服屋「今昔きもの胡蝶(古着屋)」の屋根に千両箱を抱えている。
③夜の江戸八人衆(シャッター絵に隠れる八人衆)
 各店に描かれたシャッター絵の中に、江戸の有名人が八人隠されています。それぞれの店が商う品にまつわる有名人・浅草にまつわる有名人そして、芝居や言い伝えにまつわる有名人です。
・幡随院長兵衛
 花川戸に住む町奴(まちやっこ)の長兵衛は、名の売れたあばれ者でしたが、市中を我が物顔で無茶していた旗本連中を懲らしめ、一躍町の英雄に!しかしながら、彼等にだまし討ちにされ殺害されてしまったという浅草の有名人。墓所も区内の源空寺にあります。(*手打ちうどん「叶屋」シャッター絵)
土方歳三(ひじかた としぞう)
 新撰組の副長であった土方は、大変お洒落なハンサムボーイであったようです。ハーフコートのような洋服を着て撮った写真は、非常に印象深いですね。近藤勇が処刑された後も、幕府軍の幹部として北へ転戦し、五稜郭で戦死しました。紳士服屋さんの店先に隠れていますよ。(*マルミ洋品店シャッター絵)
出雲の阿国(おくに)
歌舞伎おどりの創始者である阿国は、もとは出雲大社の巫女であったともいわれています。京都の四条河原で、その踊りを披露し、絶大な人気を持ったようです。時は徳川家が江戸に幕府を開いた年、1603年、江戸の歴史と歌舞伎の歴史は同時にスタートした訳です。
(やまとみシャッター絵)
水戸黄門(徳川光國)
 日本で最初にらーめんを食べたのは黄門様であるといわれています。黄門様は大日本史という歴史書の編纂をしていましたが、小石川の水戸藩邸では、よくスタッフの人たちに手づくりのうどんをごちそうしていたそうです。ある時、その中のひとり朱舜水(しゅしゅすい)という中国人の学者が日頃の返礼にと中国式の麺をつくり、黄門さまにごちそうした。という事から、初めてらーめんを食べた有名人になったという訳です。(ら麺亭シャッター絵)
・大久保彦左衛門
 家康と共に数々の戦で活躍し、その後家光にご意見番として登用されました。河竹黙阿弥の歌舞伎で世に知られるようになってから、すっかり人気者に。映画や本では必ず眼鏡をかけ、たらいに乗って登城する姿が。(御家人)(セキネ時計店シャッター絵)
坂本龍馬
 薩長同盟の立役者。日本の新しい時代を見れずに暗殺されてしまいましたが、慶応3年長崎での写真が残っています。羽織・袴で椅子に座り、足には靴を。いかにも新しもの好きの龍馬らしい姿ですね。(みどりや靴店シャッター絵)
新門辰五郎
 もとは浅草寺新門の門番であった辰五郎は、浅草十番組・を組の頭として活躍しました。その後、15代将軍慶喜公の側近警護を務め、各地を共に移り住んだようです。現在ではこの流れをくむ新門(第5区3番地組頭・杉林氏)が浅草寺の御用を努めています。(絆纒屋シャッター絵)
・弁天小僧
 歌舞伎でお馴染み、白波五人男のひとり、弁天小僧といえば浜松屋の店先で片肌脱いで因縁をつける場面が思い出されます。今で言えば婦人服屋さんで万引きをしたように思わせて、因縁をつけるといったところでしょうか。(金の山羊シャッター絵)
④白波五人男(しらなみごにんおとこ)
⑤スターの広場
 東京都台東区にある芸能人の手形とサインを収めた浅草公会堂の前庭(玄関前)。台東区が大衆芸能の振興に貢献した芸能人の功績をたたえ、その業績を後世に伝えるため1979年(昭和54年)に創設。
・大黒家(天ぷら)
●鎮護堂
 通称「お狸(たぬき)さま」で親しまれる鎮護堂は、浅草寺内に住み着いた狸の乱行を鎮めるため、伝法院正面脇に同院の鎮守として「狸社」を祀ったことに始まると言われ、火防・盗難除けの守護神として信仰が篤い。明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首(かんす)唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)大僧正が、夢告により境内に棲む狸を「鎮護大使者」として、伝法院の守護にまつったもので、現在のお堂は、大正2年(1913)の建立。毎年3月17日・18日に行われる祭礼では「鎮護大使者御祭典」の幟が奉納され、神楽囃子が流れる中で「地口行灯(じぐちあんどん)」が並ぶ。また、昭和53年(1978)建立の水子地蔵尊では、毎月24日午前10時に水子供養法要が行われる。
・加頭地蔵尊
破損した頭部をつないであるため「加頭地蔵(かとうじぞう)」の名がある。「首がつながる」との俗信から、サラリーマンらの信奉も集める。造立年代は不明。
幇間
幇間(ほうかん)」とは、男芸者のことである。幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和38年(1963)に建立された。表面に幇間(たいこもち)の由来と、碑には浅草生まれの小説家・劇作家・俳人である、久保田万太郎の「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」の句、裏面に幇間一同の名を刻んでいる。幇間を「たぬき」と呼んだことからこの地に建てられた。幇間の由来について塚には、幇間とは幇助のことであり、豊臣秀吉の寵臣曽呂利新左衛門を祖とする。その働きは、弁舌縦横につかい、宴席を侍り、客の間を取り持ち、遊興を助け、結果として、愁いを慰撫し、滑稽の内に風刺を挟み、怒りを和らげるものであると記している。

<今日のニュース>
2020年東京五輪 過去最多の金メダルを 震災復興も後押し。
 2020年の東京オリンピックパラリンピックに向けた、政府の基本方針案が明らかになった。方針案では国民総参加を掲げ、東日本大震災からの復興を後押しする為、被災地で聖火リレーや大会イベント等を実施。オリンピックの金メダルについては、1964年の東京大会、2004年のアテネ大会の16個を上回る過去最多を目指す。
 また、東京パラリンピックに向け、選手の発掘や育成・強化に取り組む自治体が増えている。こうした動きは、競技人口が少なく選手の掘り起こしに苦労している、国内の競技団体も歓迎している。
◆「代執行」求め 国が沖縄県を提訴
 沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設計画を巡り、沖縄県の翁長知事が名護市辺野古沖の埋め立て承認を取り消したことに対し、国は17日、知事の代わりに取り消しを撤回する代執行を求めて提訴した。石井国土交通相は「普天間基地の危険な状況を、そのままでは放置することになる。国同士の約束事も守れないことになる」と会見で語った。福岡高裁那覇支部には、訴状を提出するため那覇地方法務局の職員が入った。那覇市では号外が配られた。記者会見を開いた翁長知事は「埋め立ての承認、取り消しの審査権限は沖縄県知事にある」と主張。一方で菅官房長官は「政府として、関連法令に基づいて、自然環境や住民の生活環境に最大の配慮をしながら移設工事を進めていくことに変わりはない」と述べた。
 普天間基地の移設先とされている名護市辺野古では移設に向けた工事が進められている。国が提訴するに至った経緯は、一昨年12月、当時の仲井真知事が埋め立てを承認。それに対して、翁長知事は、法律上問題があるとして承認を取り消した。これに対して国は問題が無いとして、取り消しを撤回しようとしている。これが今回、求めている「代執行」となる。アメリカ軍基地をめぐって国と沖縄が争うのは、20年前、軍用地の強制使用をめぐり「代理署名」の裁判が行なわれた。当時の大田知事は沖縄県議会で「国には署名捺印できない旨、通知することにしている」と代理署名を拒否。国が行政訴訟を起こした。そのころ沖縄ではアメリカ兵による、少女暴行事件が起こり基地縮小を求める声が高まっていた。提訴から8ヶ月あまりで国の勝訴が確定した。当時、福岡高裁那覇支部で裁判長を勤めた大塚一郎さんは「法律上はどうにもならない。行政上の解釈上、拒否するわけにいかない」と語る。一方で沖縄県側の弁護団長であった中野清光さんは「沖縄だけ孤立した闘いだった」と語る。前回の裁判から20年の年月たった現在、大塚さんは「互いに努力して基地少なくしていくのが望ましい」と語る。今回の国の提訴について、専門家からは「必要な手続きだ」「対話を続けていくことが解決の方法ではないか」と様々な意見が出ている。
◆“マタハラ” 賠償命じる判決
 広島・広島市の病院で働いていた管理職の女性が、妊娠を理由に降格させたれたのは不当だと訴えていたが、広島高等裁判所は、賠償を命じる判決を言い渡した。裁判で1審と2審は女性の訴えを退けていたが、最高裁判所は去年10月、妊娠や出産を理由にした降格は原則、違法で無効だという初めての判断を示し、広島高裁に審議のやり直しを命じていた。広島高裁は判決で女性の訴えを認め、病院側に175万円の賠償を命じる判決を言い渡した。判決は、妊娠、出産をした女性に不利益な扱いをしないよう、企業側に対応を迫るものになった。

<11月17日生まれの先人の言葉>
●本田 宗一郎(ホンダ創立者
 ・失敗もせず問題を解決した人と十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。
鹿内信隆フジサンケイグループ元社長)
 ・美術館のとりもつ縁で、私は、世界の政治家、経済人、芸術家などと、ずいぶん交友がひろまった。
 ・社交の席での話題はその人の教養が相手方の心を打ち、尊敬されることから真の友情と信頼がうまれるものだ。