江戸の火消し

◆江戸の消防組織
・江戸時代初期には消防組織が制度化されていなかったが、度重なる大火などを契機として火消の制度が設けられていった。火消は、武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消に大別される。また、武家火消は大名による大名火消と旗本による定火消に分類される。火消による消火は、火事場周辺の建物を破壊し、それ以上の延焼を防ぐ破壊消防という方法が用いられた。明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた木製手押ポンプが配備されたが、水を継続的に供給する手段に乏しく、明治維新に至るまでの間、消火の主力は火消人足(中核は鳶職人)による破壊消防であった。
・大名火消し
 桶町火事より2年後の寛永20年(1643年)、大名火消しが制度化された。これは幕府が大名に課役として消防を命じたものである。従来、火事が発生してから奉書により大名に消火を命じていたが、これを改め事前に消火を担当する大名を任命したものであった。他に大名火消の一形態として、霊廟・神社・米蔵など幕府にとって重要な場所の消防を担当させた所々火消、江戸の町を方角などで地域割りして消防を担当させた方角火消、各大名屋敷の自衛消防組織に対し近隣の火事へ出動義務を課した各自火消などが設けられた。
・定火消し
 明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、定火消しが制度化された。これは幕府の直轄であり、旗本に消防を命じたものである。火の見櫓を備えた火消屋敷(現在の消防署の原型)を与え、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足を雇わせ、消防活動を担当させた。はじまりは4組であったが、一時期15組まで増加し、幕末には逆に1組まで減少するなど、幕府の財政や兵制、町火消の整備などによって増減している。10組で構成された期間が長く、十人屋敷・十人火消とも呼ばれた。
町火消し
 享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消しが制度化された。これは町人による火消しであり、各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものである。町奉行に就任した大岡忠相が名主などの意見も取り入れて考案し、複数の町を「組」としてまとめ、隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、東を担当する本所・深川の16組が設けられた。享保15年(1730年)には、火事場への動員数増加と効率化を目的として、数組ずつに分けて統括する大組が設けられた。町火消は当初町人地の消防のみを担当していたが、町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、江戸城内の火事にも出動した。幕末には武家火消が大幅に削減されたため、江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えている。
<参考>
・火除地・広小路
 明暦3年(1657年)の明暦の大火で江戸市中が焼失した後、再建計画では火災対策が重視され、延焼を防ぐための空間作りが行なわれた。まず江戸城内にあった御三家の上屋敷を城外に移し、その跡を防火用地とした。御三家の屋敷移転に伴い、他の大名屋敷や旗本屋敷も移転が命じられた。江戸市中の過密状態を緩和するため、移転先の多くはこれまでより江戸城から離れた場所であった。また、大名に対し元禄年間にかけて中屋敷下屋敷の用地を与え、江戸の外れに設けられた下屋敷は火事の際の避難所にもなった。一連の移動で、埋め立てが完成していた築地などにも新たな武家屋敷が設けられるようになる。寛文元年(1661年)ごろには本所の干拓が完成し、武家屋敷の建設や町屋の移転が進んだ。寺社に対しても同様に移転が命じられた。主な移転先となったのは外堀の外側で、各地に点在していた寺社が浅草・駒込・小石川などにまとめて移されている。また、吉原遊郭日本橋付近から浅草付近へと移転したのもこの時期である(移転は大火の前から決定していた)。
 江戸市中の再建では、新たに延焼を防ぐための広場・空地である火除地が設けられた。従来の街路を拡幅し、火除地と同様の機能を持たせた広小路も設けられた。火除地や広小路の設けられた場所の住人には移住が命じられ、江戸の外縁部や埋立地に移住先として新たな町がつくられた。このため、結果として江戸の市街地が拡大していくこととなった。寛文2年(1662年)には、前年までおおむね外堀の内側に限られていた町奉行の支配地域(江戸府内)が、上野・浅草・芝なども含むように改編されている。移転を伴わない対策としては、家屋に対して庇の除去を命じる町触が出されている。これは、街路に突き出した庇を短く除去することで、実質的な街路の拡幅と延焼の防止を意図したものであった。
 天和の大火後には、火除地の新設や広小路の延長が計画され、再び大名屋敷や寺社の移転が行なわれた。この移転によって寺社のほとんどは外堀の外側に位置することとなった。享保の改革では、町火消の制度化をはじめとして江戸市中の火事対策が強化された。将軍徳川吉宗は江戸の不燃化に熱心であり、吉宗の方針によって神田・八丁堀・市谷などに新たな火除地が設けられている。こうして江戸市中各所に設けられた火除地や広小路であったが、火除地に指定された場所に家屋が建設されたり、広小路に商売用の小屋が立ち並んで以前より危険になったりと、その役割を果たしていないこともあった。