牛の御前(牛島神社)。

<今日の江戸検>
◆江戸時代には「牛御前社」と呼ばれた向島牛嶋神社は、本所の総鎮守。社殿は昭和の再建だが、境内の撫で牛は文政8年(1815)頃の奉納品。5年に一度の大祭では現在も、黒牛が曳く鳳輦が向島から両国一帯に広がる氏子町を2日間かけて練り歩く。
・牛の御前(牛島神社)
 牛島神社は、貞観年間(859-79)の頃慈覚大師が建立したと伝えられています。かつては牛御前社と称しており、その由来については、慈覚大師が一草庵須佐之男命の権現である老翁に会った際に、「わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と呼ぶようになった」との神託により牛島神社となったとも、或いは牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを御前と転称したものであろうともいいます。本所総鎮守として崇敬を集め、明治時代には郷社に列格していました。
・「すみだの史跡文化財めぐり」による牛島神社の由緒
 関東大震災で焼失する被害を蒙りましたが、かつては少し北の墨堤常夜灯(向島五丁目1番 隅田公園内)の東にあり、隅田公園の開設にあたり昭和7年に現在地に移りました。旧地には記念標石が建っています。
 縁起によると、貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と呼ぶようになったとも伝えます。また「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明しています。本所総鎮守の社として知られています。 また、由緒によると、治承4年(1180)伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなきを得たといいます。以後千葉氏の崇敬が厚く、宝物として月輪の紋をつけた千葉家の旗が伝わり、箱書に「此指物自先祖 持来候 然而牛御前宮者 先祖千葉家被再興候 慶長18(1613)年9月15日 国分宗兵衛正勝敬白 牛御前別当最勝寺」とあります。
また当社には、後刻と思われる貞観17年(875)銘をもつ板碑が所蔵されていましたが、震災時に損壊して現物は実見ことはできません。なお、その拓本が所蔵されています。(すみだの史跡文化財めぐりより)  (「猫のあしあと」より)]
・撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。この牛の像は、文政8年(1815)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな日ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。(墨田区教育委員会

<今日の名言>
・「人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退の四字でございます。そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならないが、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分でできるもの。」
 これは、越後長岡藩7万4千石の家老となって明治維新前後のこの小藩の運命を握り、武装中立を宣言するが最後は官軍を大いに苦しめる。司馬遼太郎歴史小説「峠」の主人公として馴染みがある河井継之助の言葉である。1月27日は彼の生誕日である。
<参考>「越後長岡の偉人・河井継之助山本五十六http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20150127#p1