上野東照宮

上野東照宮
 正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康東照大権現)・徳川吉宗徳川慶喜を祀った社。3代将軍家光が造営した当時の建築が現存している。 石造神明鳥居から参道へずらりと並ぶ50基の青銅灯籠、唐門、透塀、拝殿、幣殿、本殿などはすべて国の重要文化財
元和2年(1616)4月17日、徳川家康駿河で死去し、久能山に葬られた。元和4年(1618)に日光山に移葬され、日光東照宮が造られた。この年、浅草寺境内にも東照宮が造られ、御三家、大名、旗本は、毎月17日、浅草東照宮に参拝するのが恒例となった。 一方藤堂高虎は家康への敬心厚く、寛永4年(1627)に屋敷内に上野東照宮を勧請していた。1627年(寛永4年)、津藩主藤堂高虎天台宗僧侶天海僧正により、東叡山寛永寺境内に家康公をお祀りする神社として創建され、現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したものである。寛永19年(1641)2月に浅草東照宮が焼失したため、浅草に代わり上野東照宮に、大名諸侯が参拝することになった。後光明天皇の正保3年(1646)には、正式に東照宮宮号を受け、慶安3年(1650)には、三代将軍家光が社殿の造り替えを命じ、翌慶安4年(1651)4月完成したのが現在の東照宮である。参道入り口の明神大鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋城主・酒井忠世が奉納したものである。寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。社殿は平成21年(2009年)1月から平成25年(2013年)まで修復工事が行われ、平成26年(2014年)から公開されている。1646年(正保3年)には正式に宮号を授けられ「東照宮」となった。現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもの。その後戊辰戦争関東大震災でも焼失せず、第二次世界大戦にも不発弾を被っただけで社殿の倒壊は免れた。 江戸の面影を現在に残す貴重な文化財である。東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社で、日光や久能山のほか全国に数多くある。春はぼたん・桜の名所として、秋は紅葉狩り、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の方で大変賑わっている。また、東京では数少ない本格的な江戸建築を間近でみられる神社である。
●石鳥居
 上野東照宮は、藤堂高虎が創建したもの。上野といえば、寛永寺があると思いがちであるが、寛永寺ができたのは寛永8年(1631)で、寛永寺ができる前にには、藤堂高虎等の下屋敷がありました。藤堂高虎寛永4年(1627)その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社を創建しました。 家康がなくなる時に、藤堂高虎天海僧正が、危篤の家康の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言されたので、藤堂高虎の屋敷があった場所に創建されたとも、また、江戸市民が東照宮に参拝しやすくするために上野に創建されたとも言われています。東照宮は、創建当時は東照社と呼ばれていましたが、正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈りましたので、それ以後、東照宮と呼ぶようになりました。現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたもの。
 東照宮の入口に、国の重要文化財に指定されている大きな石鳥居がある。この鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものである。石鳥居の左の柱に「寛永10年 酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれている。この鳥居の様式を明神型鳥居という。酒井忠世は、2代将軍秀忠付の年寄でしたが、家光が世継となると家光付の年寄となります。家光は、平素口数少なく厳正な忠世を最も畏れたといわれている。この鳥居を奉納された翌年の寛永11年家光が30万の大軍を率いて上洛していた7月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は責任をとって寛永寺に退去しましたが、これがかえって家光の怒りをかい失脚することとなった。酒井忠世の子は忠行で、孫が4代将軍家綱の時代に下馬将軍とよばれ権力を振るい大老にまでなった酒井忠清である。
 大鳥居の石材には備前御影石が使用されています。鳥居の右の柱には、「得鉅石於備前国迎茲南海運干当山」と刻まれている。正確な読み方はわかりませんが、「備前国で巨石を取り出し、南海を運んで当山に建てた」というような意味だと思われる。
 この石鳥居を建立した酒井忠世は、家光の勘気を蒙って失脚したが、その後、天和年間に石鳥居が地下に埋められたと言われている。天和年間になぜ地中に埋められるようになったかは詳しいことはわかりません。それを享保19年(1734)に再建したのが、7代後の酒井雅楽頭家の当主である酒井忠知(忠恭)です。石鳥居の裏側には、そのことが刻まれている。鳥居の裏には次のように刻まれている。「右石華表者七世祖考酒井忠世所奉建也。今茲蒙台命加琢磨奉再建之。享保十九年甲寅十二月十七日、厩橋城主従四位下酒井雅樂頭減朝臣忠知」
 「華表」とは「鳥居のこと」、「琢磨」とは「玉などをとぎ みがくこと」である。すると石鳥居は、7代前の祖先である酒井忠世が建てたものです。今、将軍の命令を賜って、磨きなおし再建しました。享保19年 酒井忠知」といった意味だと思う。酒井忠知は、後に酒井忠恭と名前を変えていて、老中まで勤めている。この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名である。
●水舎門
 石鳥居をくぐるとその先に、門が見えてくる。これが、水舎門(みずやもん)です。水舎門というのは、あまり聞かない門の名前である。実は、この門は、もともと社殿の手前にある水舎として使用されていたものを門として利用しているもの。門の屋根を、門の下からみると、水舎の造りである。東照宮の水舎は、慶安4年(1651)、時の老中阿部重次が奉納したもの。阿部重次東照宮の造営奉行を命じられていたので、水舎を奉納したそうです。その水舎は、社殿の手前右側にありましたが、その水舎の上屋だけを昭和39年に門として移築したものだそうです。
 水舎は、現在も、社殿の前にあります。現在の水舎は、明治 6年(1873)、新門辰五郎(*)が寄進したものといわれている。しかし、水舎の中に設置されている水鉢をよくみると、水鉢の右側に「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」左側には「慶安四年猛春吉辰」と刻まれている。猛春は三月を指していると思われる。また、吉辰は吉日と同じ意味であり、阿部重次が慶安4年3月に奉納した水鉢であることがわかる。水舎門に使用されている上屋と水鉢は一体となって使用されていたものであり、水鉢として使用されている石材は小松石だそうである。小松石は、非常に堅い石ですので、少しの文字を刻むにも相当の労力を必要とするそうだ。それにもかかわらず、これだけの文字を刻んでいるので、労力を惜しまずこなわれていることがわかる。水舎を奉納した阿部重次は、この水舎を奉納してまもなく亡くなっている。
 家光が亡くなった際に、5名の殉死者がいた。老中では、阿部重次堀田正盛が殉死した。
(*)新門辰五郎とは、
 武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に生まれた。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、弘化2年(1845年)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。幕府の高級官僚だった勝海舟とも交流があったと言われ、その著書『氷川清話』の中でも触れられている。一方で、博徒・小金井小次郎とも兄弟分の付き合いをした。上野大慈別当・覚王院義観の仲介で一橋慶喜徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867年)の大政奉還江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し、東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺の警護に当たっている。上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、駿府(現静岡市葵区)と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに駿府に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875年)に没、享年75(または83)。
●銅燈籠
 上野東照宮には、多くの石燈籠と銅燈籠がある。水舎門を入ると両側に、石燈籠がずらっと並んでいる。この燈籠群には、奉納された年月日と奉納者の名前が刻まれている。上野東照宮の社殿が落慶した慶安四年四月十七日となっているのがほとんどであり、その中で、一つだけ寛永五年(1628)に奉納されたものがある。2つある銅燈籠の左手のものであり、奉納者名は「伊賀少将藤原朝臣高虎」となっている。伊勢国津藩藩主藤堂高虎が奉納した。この銅燈籠は、徳川家康の十三回忌に藤堂高虎から奉納されたもの。銅燈籠の右は、会津藩保科正之が奉納したもの。
 社殿唐門の両脇には、御三家から奉納された銅燈籠がある。右から、紀州藩徳川頼宣水戸藩徳川頼房尾張藩徳川光義となっている。
<参考>
●浅草東照宮(東京を歩く④「浅草を歩く③」http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20151119#p1)
 江戸幕府を開いた徳川氏は、三河国を出発点として勢力を拡大して行きました。天正10(1582)年以降、三河遠江駿河、甲斐、信濃の五カ国領有時代を経て、関東の雄小田原北条氏の滅亡に伴い、天正18(1590)年8月1日、関東六カ国の領主として江戸に入り、豊臣政権下の最大の大名として領国経営を展開した。家康が入国した頃の江戸は、西に細長い谷間が木の枝のように刻まれた武蔵野台地が海に落ち込み、東は隅田川利根川が流れる低地が広がり、現在の東京駅の南から有楽町駅方面は日比谷入江と呼ばれる海の中でした。この入江の東の日本橋・京橋辺りは南に突き出した半島状の中洲になっていて、江戸前島と呼ばれていた。この当時、江戸は江戸湾海運の中心ではあったものの、上方の流通や都市の先進地からすれば、草深い田舎に過ぎなかった。
 しかし、そのような江戸でしたが、浅草には関東屈指の古刹浅草寺があった。『浅草寺縁起』によれば浅草寺は、推古天皇三六(628)年、檜前浜成、竹成(ひのくまのはまなり、たけなり)が隅田川の駒形辺りで網に掛った一寸八分の観音像を引き上げ、これを土師直中知(はじのあたいなかとも)の邸に奉安して信仰したのが始まりである。浅草寺は、子院十二坊を抱える大寺院でしたが、創建以来、焼失・荒廃を数回重ねて、当時の堂宇は荒れていた。入国後家康は、天海僧正の進言を入れて、浅草寺の寺領を五〇〇石を寄進し、徳川家の祈祷所として保護した。
 江戸入国から10年後の慶長5(1600)年9月、関が原の合戦で勝利を得て、慶長8(1603)年2月12日、家康は朝廷より征夷代将軍に補任せられ、江戸に幕府を開くことを認められた。慶長10(1605)年4月には、将軍職を秀忠に譲り、駿河国駿府に引退し、大御所と呼ばれ大坂冬の陣・夏の陣では総大将として戦って豊臣氏を滅ぼし、一国一城令武家諸法度禁中並公家諸法度等の諸制度を整えるなどして、徳川幕府の礎を築き、元和2(1616)年4月17日(75歳)、駿府崩御した。その本廟・東照宮下野国「日光」に建立されたが、元和四(1618)年四月、二代将軍秀忠により浅草東照宮浅草寺境内に勧請され造営された。これは、これは、日光では遠いので、江戸在府の大名や旗本、庶民が身近なところで神君を拝めるようにと、その造営を命じたものと言われている。しかし、この浅草東照宮寛永19(1642)年二月の火災により焼失した。以後は再建されずに、東照宮江戸城の紅葉山へ移された。その東照宮浅草寺境内の何処に立てられていたか、はっきりした記録は残っていないようですが、現在の淡島堂近辺ではないかと言われている。「浅草寺二天門」は、この浅草東照宮随身門(将軍の参詣門)だった。「二天門」は国重要文化財で、現存する唯一の「浅草東照宮」の建築物である。