渋川春海と江戸時代の天文学者たち(国立科学博物館)

渋川春海と江戸時代の天文学者たち
渋川春海とその時代
 江戸時代以前の日本は、中国の天文学を基本としていた。渋川春海は夜空の星を実際に観測し、その上に独自の天文学を築いた。彼が天体観測を行った理由の一つは平安時代に採用された中国の暦のずれを正すことでしたが、それには保科正之徳川光圀など、さまざまな人々との親交が大きな力となった。
天文学者 徳川吉宗
 享保の改革などで有名な徳川幕府第8代将軍吉宗(1684-1751)は科学技術に関心が高く、禁書令を緩和するだけでなく、天体望遠鏡天文台を作り、自身も天体観測を行っていた。
高橋至時と市井の天文学者たち
 江戸時代中期の市民の文化水準の高さを示す証しの一つとして、大坂の天文学者たちの存在があった。西洋の天文学を取り入れ、 新しい観測機器を製作して精度の高い観測を行った彼らは、幕府に招かれ、江戸時代の天文学を大きく発展させた。
高橋景保と渋川景佑
 高橋至時(1764-1804)の子、高橋景保(1785-1829)と渋川景佑(1787-1856?)の兄弟は、江戸時代の後期、蛮書和解御用を設け、オランダ語で書かれた天文学書を直接学んで得られた知識にもとづいて、世界でもっとも精緻な太陰太陽暦といわれる天保暦を完成させるとともに、さまざまな天体の観測を行った。
<参考>
渋川春海(しぶかわはるみ、しゅんかいとも、二世安井(保井)算哲、のち渋川と改姓、1639〜1715)は、江戸前期の暦学者、幕府天文方である。碁所(ごどころ)家元、安井算哲の子で、碁では上手(七段)となり、お城碁にも出仕している。彼は渋川助左右衛門春海として、1000年の間、唐代の「宣明暦」を一歩も出なかったわが国で、渾天儀(こんてんぎ)を作って天体を観測、天球儀、地球儀も作り、「宣明暦」に誤りが多いのを痛感し、1684年(貞享元年)、「宣明暦」を改めて「貞享暦」を作ったことで有名である。日本人の手になる最初の暦です。同時に七曜暦を復興した。この年に新設された天文方に任ぜられ(以降渋川家が世襲)、天文、暦学の研究に専念した。
 安井家(30石)は、後々囲碁の世界で本因坊家と対立し、しのぎを削る厳しい闘いを展開していた。安井家の一世は安井算哲(古算哲とも、1590〜1652)である。のち、長子の二世安井算哲(のち渋川春海、1639〜1715)が碁方を離れて天文方に転じたので、弟子の算知を養子として跡目にし、のち二世安井算知(1617〜1703)となりった。当時、一般に力碁で、モリモリ打つ手法を安井流と言ったそうで、本因坊算砂中村道碩の軽い手筋でサバク手法とは両極的な存在でした。